04

 その女がやってきたのは、あの不思議な野原を突っ切ってから大して日も経たないうちだった。
 くのいち以外の女性というのが、食堂のおばちゃんだけの忍術学園には、まるで一大事だった。女はまだ若く、かといって少女という年齢ではなかった。黒目がちな切れ長の目に、長い睫して、長い髪を後ろで流して先っちょを紙縒りで結んでいた。スラリと白い顔。浅葱に薄の着物着て、銀の帯、締めていた。帯締めは赤、帯止めは紅葉。袖から覗く手が、ひょろりと細い。
 その手が手裏剣やクナイを握るのかといえばそうではなくて、おばちゃんが、外で秋刀魚を焼いてた時にちょっと指を怪我をして、包丁を握れないって言うので親戚の紹介だとかいうその女が臨時で雇われてきたのだった。
 ちょっと顎を引いて、首を傾げるように笑う癖があった。大人しいかと思えばそうでもなくて、話しかければはきはきと気持ちよく話す。
 女はと名乗った。まっすぐに切り揃えられた前髪の線が、妙に印象的だった。

 最初は遠巻きに、様子を見ていた生徒たちも、次の日の朝食ではまず最初に人懐っこく物怖じしない1年生が、興味津々に元気良く、そしてその後に4年生が続きやっと他の学年も混じり始め、最後に彼らとは少し違った様子で、6年生がゆっくりと続いた。

「みんな元気だねえ。」
 半ば感心したように笑う雷蔵の正面で、味噌汁を啜りながら三郎が「…知らねーぞ、ったく。」と小さく呟く。「ん?」と鮭をパクリとやりながら顔を上げると、三郎はなんでもない、と雷蔵の顔のまま、いつにもなく不機嫌そうに唸った。
「なんだァ?どうした!朝から機嫌悪そうだなあ!こんな顔して食っても飯がうまくねーぞ!なあ!らいぞ…う!」
「当たり。」
 三郎の肩を豪快に叩いた八佐ヱ門が、にっこり笑って告げられた雷蔵の言葉に嬉しそうに笑う。逆に三郎は、いきなり叩かれて咽たようだ。珍しくその攻撃(とあえて言おう)をかわせず、咳き込んでいる。
「あれ、ほんとに調子悪いのか。めずらしいな。」
 茶を渡しながら、八佐ヱ門が目を丸くする。
 どうしかしたのか?と言外に雷蔵に目をやるが、彼だってわからない、と肩をすくめる。名物コンビだろうがなんだろうが、わからないことはある。うるさいぞ、と茶を飲み干す三郎の後ろで、楽しそうな声が上がった。
「盛り上がってんなあ。」
 他人事のように、のんびりと八佐ヱ門が笑う。

 見やった先ではが生徒たちに囲まれてなにやら話している。おねーさんという下級生のあどけない笑い声が和やかだ。女の声は案外に低く、あまり届いてこない。
 ふとその輪から、外れて静かに立っている少年二人に気づいて、雷蔵は小さく会釈した。
 上級生だ。
 向こうもこちらに気づいたようで、朝食の盆を持ったまま、三人の机へゆっくりと歩いてくる。
「おはようございます、立花先輩。」
「ああ、おはよう。」
 仙蔵がゆっくりと、いささかぎこちなく微笑む。構わないか?と確認しながら正面に座る仙蔵の髪が、絹糸のように空気に解ける。さすが今日もサラサラですね、という言葉は辛うじてお茶と一緒に呑み込んだ。
「気に入らん!実に気に入らんぞオオオオオ!?」
「うるさいぞ、文次郎。」
 いつになくギンギンした男もズカズカとやってくると、小声で叫び、仙蔵の隣に腰を下ろした。しっかりその手に朝食の盆を持っている。
 珍しいこともあるものだ、この男がまさか食堂で飯を食う日に遭遇しようとは。

 5年生三人はそもそも珍しい組み合わせの上級生二人の前で目をまん丸にした。
 そんな驚きの視線を気にすることなく、文次郎は朝食をその大きな口にかきこんでゆく。いったい何日ぶりの、まともな食事なのだろうか想像したくもない。しかしこの男が、思わず普通に朝食をとってしまうほど気に入らない何かが起こっているのだ。
 調子の出ない三郎といい、どうにも今朝はおかしい。
 ぽかんと口を開けた(ひとりは口を開けてはいなかったが)下級生の前で、仙蔵は優雅に卵を割り、箸でかき混ぜながら声を潜めて呟く。
「ああ、だが私もだ。私もだよ、文次郎。気に入らない。…いいや、なにか妙な感じだ。得体が知れない。…嫌な予感がする。」
 その目が実習中のように、鋭く細いものであることに息を呑みながら、三人は二人の視線の先を、そっと伺いやる。三郎はすぐに、不思議なニヤリという微笑を上級生に向け、それに二人がゆっくりと難しい顔で頷いた。

 取り残されてわけの分からない雷蔵と八佐ヱ門の視線の先では、が楽しそうに、首を傾げて笑っている。
 確かにみんな盛り上がってはいるが、別段変なところは見受けられない。女が絡むと良いことはないと言うけれど、そういうことを心配しているのだろうか?雷蔵の不思議そうな視線を受けて、仙蔵が少し口端をあげてみせる。そういえばこの男こそ、声をかけに行きそうなものなのに。

「…そこまで女に困っていない。私も、他の上級生もな。」
「うへっ!」
「顔に書いてある。二人共だ。」
 二人とも、と言われて三郎と八佐ヱ門は顔を見合わせる。
 まったく敵わない。お見逸れしました、肩を竦めながら朝食の続きに箸をつける二人に対して、ふと三郎が顔を上げる。

「…どう思います?」
 彼の敬語は不思議と敬語という感じがしないが嫌ではない。
 それに今度は、仙蔵と文次郎が顔を見合わせる。複雑な視線が一瞬で交わされ、二人は机の真ん中に顔を寄せる。自然三人も、顔を寄せた。

「「不穏だ。」」

 ぴったり重なった言葉はそれこそ不穏だった。
 三郎が、静かに頷く。そのことが一番、雷蔵には衝撃的に思えた。
 三郎の目は、いつになく静かで、ふと初めて会った頃を思い出させる。あの頃の、三郎。不思議が人の形をとったような、あの読めない微笑。そんなもんかなあ、と感想を口にする八佐ヱ門の、声がどこか遠い。
 そのままこの奇妙な感じを残しておくのが忍びなくて、雷蔵がなにか言おうと思ったときだった。「そういえばお前、普通に飯食ってるな。」という仙蔵の言葉に、すべて騒がしさの中に飲まれてしまって結局具体的なことをなにひとつ聞けずじまいになるのだけれど、不思議とその腹の底にずしりと溜まるような不安感ばかり、雷蔵に残った。



20090219