05

「ええーと…蜂屋三郎くん、」
「外れ。僕が不破。不破雷蔵ですよ。さん。」
「あら、じゃあ、こっちが蜂屋くん?」
「んー、騙されないでくださいね。僕が雷蔵です。おい三郎、いい加減にしろよ。」

 驚いた。
 雷蔵は目をまん丸にして隣で完璧に自分をこなす三郎を見ていた。困ったような微笑なんて、自分では見たことないがたぶん寸分の違いなくそっくりなのだろうと思う。

 どういうことか、あの朝の一件以来、三郎は完璧に雷蔵に変装しきっている。これが彼の本気なのだ。伊達に長いこと一緒にいるわけではない。小さな癖から大雑把なだいたいの感じまで、完全に把握しきっている、いいや雷蔵になっていると言っても過言ではあるまい。口調、仕草、字体に至るまで、彼は完璧に雷蔵だ。
 教師にいい加減にしろと怒鳴られてなお、彼は雷蔵であることを止めようとしない。三郎においては稀に見る、意思の固さである。
 このまま行くと雷蔵の信用までなくなってしまうんじゃないかというくらい、いくら雷蔵が自分が雷蔵なのだと主張しても三郎は食らいついてきた。ついには雷蔵がへとへとになっても、なお自らが雷蔵であると主張したのである。
 ここまでくると雷蔵は、ときどき三郎に、「おい三郎、」なんて言われると、自分はひょっとして三郎だったかしら、と思ってしまうくらいだった。

 本人にすらそうなのだから仕方がない。案の定見分けられないのだろう、は目を丸くして、「えっ!ええ!どっち?」だなんておかしそうに笑っているが、少しその眉が困ったように寄せられているのにも雷蔵は気づいていた。

 あの朝の会話がなければ、ただのいつもの楽しい悪戯、新しく来た一般人のお姉さんをからかう遊びだと思えたかもしれないけれど、そうとはもういえない。
 何か三郎が、自分と彼、お互いの周りに見えない緊張の糸を張り巡らせていく過程が目に見えるようだった。
 噫こうして彼はいつも自らの周りに糸を張っているのか。他人事のように、ついうっかり感心してしまいそうになるのでいけない。

 雷蔵にはどうにも、彼らの言うの不穏さが分からず、ただただ三人の告げた凶兆ばかりが喉につかえた感じがしているのである。八佐ヱ門が首をひねったのと同じに、彼にもどうにも、に不穏な影を見出すことができなかったのだ。
 くの一のほうが、よっぽど危険で不穏に思えるのだけどなあ、と首をかしげたところでわかるはずがない。
 ただこういうときの三郎に、逆らわないほうがいいというのは5年間の経験で学んでいるから、心の中で(ごめんね、さん。)と謝るだけに彼はとどめておくしかない。

「ほら。行こう、三郎。じゃあさん、さよなら。」
「ちょ、待ってよ三郎。じゃあさん、さよなら。」

 最後の台詞はわかっていたのに被ってしまった。
 ますます困ったような顔をして、が朝食といっしょに二人を送り出す。見分けられないでしょう、というおばちゃんの愉快そうな笑い声に、ええ、と相槌を打つ声が聞こえた。三郎は振り返らず、早足に食堂の一番奥の席へ急ぐ。
 カウンターから一番遠い席。
 最近その机に、仙蔵と雷蔵、三郎とそれからなんとなく八佐ヱ門がたまるようになっていた。
 三郎が雷蔵になりきり出してから、仙蔵には思うところがあったらしい。殊勝な心がけだな、などど涼しい顔で言ってのけ、八佐ヱ門はほんとにわかんねえなあ、と感心して頷くばかりだ。文次郎は時折覗きにきてはブツブツ呟いて去ってゆく。
 気に入らん、気に入らんぞ。その唸るような声ばかり、耳の奥に残る。

 しかし実際はたいそうな人気で、下級生にはお姉さんと懐かれ上級生からは違う意味合いで人気がある。熱心に話しかける生徒も少なくない上に、くの一たちともうまくやっているようだった。時折楽しそうな、女子特有の談笑が食堂から聞こえた。

「おい三郎!」
 小声で咎めるように呼びかけると、三郎がくるりと振り返った。その目は真剣そのもので、ずいぶん近い。

「なんだい三郎。」
 にっこりと三郎が笑う。その笑顔、確かに自分のものだ。ふいにぞっとして、雷蔵は首を振った。これはあんまり、冗談が過ぎる。
「もう止めてくれ!」
 それでも叫びは小さな声にしかならなかった。なぜか本能的に、彼の声が小さくなったのだ。
 それに満足したように、三郎が雷蔵の表情のまま笑う。「やっと気づいたかい?」
 その通り、その時初めて、彼は気づいたのだ。
 自分たちふたりを、じっと色のない目で見つめるに。
 見られている。ただそれだけ。それだけだ。だのにどうしてこんな、冷たい汗が背中を流れてゆくのだろう?わけも分からず雷蔵は、盆を持つ手が震えるのを他人事のように感じていた。
 黒目がちな感情のない目玉。あの目に見られている。非力そうな腕だったじゃないか。あんなに白くて細かった。いったいあの人のどこに、こんなにも恐れなくてはならない要素があるだろう?
 噫しかし彼の直感的な部分が告げている。危険、危険だ。恐ろしいことがあるよ、と。

 それでも彼は、少し振り返った。
 するとごく普通にと目が合った。は本当に、今まさに初めて目が合ったのだというように、目を丸くして、首を傾げて少し微笑んでみせる。さきほどの無感動な目など、どこにも見当たりはしない。人懐こそうな笑みだ。ぞっとする欠片も、見当たらないように思えた。見間違いだろうか――そう思いかけた雷蔵に、久しぶりに三郎その人の囁きが届く。

「どちらがどちらか、感づかれてはいけない。」

 その声は本当に、口に出されたのかわからなかった。
 雷蔵は一瞬、その声が自らの内側から聞こえたような錯覚に陥り、思考を止める。はっと気づいて顔を上げた時には、もう三郎は少し前を歩いて彼に背を向けていた。
「三郎どうかしたの?」
 さあご飯にしようよ、そう笑って三郎が、いいや雷蔵が?彼の目の前を楽しげに歩いていく。悪夢じゃないならこれはなんだろう。同じ箸の持ち方、同じ順番でものを食べ、同じだけものを噛む。
 これが普段ならどんなに愉快な悪戯だろう。
 けれども雷蔵は、その間も再び、のあの視線を感じていた。一度気がつくと、もう知らん振りしていることができない。そんな目線だ。
 今日からこの席も替えようか、などと仙蔵が、ぼそり呟く。えっ先輩もう一緒に食べないんですか?と今まさに自分が言おうとしたことを三郎に言われて、雷蔵は眩暈がするように思った。
 これじゃあ落ち着いて飯が食えん。そんなあ!
 自分が交わすはずの会話の応酬。気分が悪くなりそうだ。八佐ヱ門が、「おい、三郎だか雷蔵だか、大丈夫か?」と言うのにぎこちなく微笑んで見せると雷蔵は食事をすすめた。
 そっくり同じ顔で、三郎が訊ねる。

「三郎気分でも悪いのかい?顔が白いよ。」

 よしてくれ、少し雷蔵はわらう。
 噫でもその前に、自分が誰だかわからなくなりそうなんだ。雷蔵の悲鳴は言葉になりきらずに鮭の骨と一緒に喉の奥へ消える。



20090219