06
か誰かに見破られるか、それともいい加減教師陣から本気のお叱りを受けるか。正直三郎も雷蔵も、そう思っていたのだけれど、まさかその前に雷蔵が参ってしまった。
「流石に二人揃って床につくわけにはいかないものなぁ。」
憮然として切れ長の目を開いたまま、三郎が布団の中で苦しそうにする雷蔵を見下ろした。三郎のあまりのなりきりに、精神的に参ってしまったらしい。ここで自分も同じように病気のふりをしてみても、新野先生にすぐバレて布団を追い出されるのが関の山。
変装の名手も流石に体調ばかりはなんともできないらしい。「醤油を一瓶飲んでもいいけれどあんまりにもハイリスクハイリターン、」三郎のひとりごとがいつになく不穏だ。
かすかに呻きながら雷蔵がうっすら目を開けると、にこりと未だ雷蔵のふりをした三郎が笑った。だからそのせいで参ったのに!雷蔵の抗議の視線に、悪い悪いと三郎は笑って「もうちょっとだけ、待ってくれないか?ほんとにもうちょっとだけだから。」そう雷蔵の声音で苦笑した。
なにかひとことくらい、文句をいってやらねば気がすまない。こうして参ってしまった原因の半分以上は、確実に彼にある。しかしその内の本の一部に、という人絡んでいるのは違いない。あの一度きり見たぽっかり空いた穴の目玉が、忘れられず、夜中に汗を掻いて飛び起きたこともある。
重石を乗せたように体全体がだるい中、雷蔵がそれでも口を開こうとした。しかし、大股に廊下を早足で駆ける音がして、「おい、生きてるか!」となんとも失礼な大声といっしょに八佐ヱ門が顔を覗かせた。急に部屋の中が明るくなったようで、雷蔵が少し笑うと「おお!案外元気そうで重畳」と彼はニッカと笑ってみせた。その言い回しに三郎が、雷蔵の真似をしたままぷっと吹き出す。
「八佐ヱ門たら変な言い方!…ところでちゃんと例のものは持ってきてくれたろうね?」
それにおうと気持ちよい大声で返して、八佐ヱ門が持っていた包みを畳の上へ下ろした。
たぷり、と水が揺れるような音がして、ずいぶんと重たそうだな、と雷蔵が思っていると、なるほど、解かれた包みから現れたのは一般的なものよりもずいぶん大きな酒瓶であった。どこの酒蔵から持ち出してきたのか、瓶は古びて銘を読むことができない。
「…よく手に入れたね。」
感嘆の声をいくら雷蔵のふりをしているとは言え三郎が上げるのはめずらしい。「苦労したんだぜ、」とちっとも苦労なぞしていないように照れる八佐ヱ門に、思わず雷蔵は微笑んだ。八佐ヱ門の背中越しに、庭が見えていた。緑が明るく、秋のいい風が吹き込んでくる。その涼しさに、雷蔵はそっと目を細めた。少し眠れそうだ。
うつらうつらとしながら、枕辺で交わされる二人の会話を聞く。l
「でもさ、こんなの何に使うんだ?30年ものの日本酒それも大瓶。まさか昼間っから隠れて酒盛りにしちゃあいくらお前でも量が多すぎるだろ。」
「…僕が下戸なの知っているくせに。」
「雷蔵はな。」
そう言って八佐ヱ門がくい、と布団に包まっている雷蔵を指差した。
「三郎はあんなに細やかじゃねえし、なにせお前はウワバミだ。」
「…失礼な。」
二人の間で陽気な笑い声が起こる。
ふいに自分が、幼い時分に帰って、父母の低い話し声を夢現に聞いているような気分になった。なぜだかすこし、センチメンタルだ。ああ、外の光が明るいな、眠ってしまおう。繰り返し繰り返し、寄せてくる眠気に身をゆだねる。舟になって、揺られるような気持ちだ。まだ枕元で、話は続いている。
ふいにポン、と栓を抜く高い音がした。トクトクと酒が注がれる音。雷蔵の耳には眠りの波音に聞こえる。
「どうするんだ?三郎。」
「いいか、八佐ヱ門。お前俺と雷蔵好きか?」
「好きだよ。」
即答である。恥ずかしいやつめと呆れたように三郎が言うと、訊ねておいて失敬なやつだと八佐ヱ門は気にした風もなく返した。
「好きならお前、どっちがどっちかわかっても言うなよ。」
ヒヤリと空気が冷えた気がして、雷蔵は少し、眠りかけた意識が覚醒するのをひとごとのように感じていた。
「なんで、」
「なんででも。」
しばらく沈黙が降りて、ふう、とため息をついたのは三郎のほうらしい。めずらしいことだ。「全部片付いたら教えてやるよ。」それに八左ヱ門は納得したようで、しかし「絶対な。」と釘をさすのも忘れなった。
「さて、」
雷蔵の声音だが三郎の声だ。
ほとんど眠りかけの頭では、まるで自分が、どこか遠くで喋っているようにも聞こえて妙なかんじがする。
ふいにプンと酒の匂いが漂ってきて、なんとなく酔いそうだなと思った。
目を瞑っているのでわからないが、布団の周りを歩く気配がする。くっついたままの目蓋をむりやりにこじ開けて見ると、三郎が指の先で、左手に持った皿から酒をすくっては畳の上に道を作っていた。それはぐるりと、雷蔵を囲むと円を閉じた。
「できあがり。」
雷蔵の笑顔で、三郎が笑った。
なんだあそれ、とじっと彼の作業を見つめていた八左ヱ門が声を上げ、三郎がくつりと笑う。おいおい、地が出てるぞ、と指摘され、おっといけないと悪戯に笑う。どうやら心の余裕がだんだん戻ってきたようだ。
酒の匂いに閉じ込められたようで、雷蔵はどうにも落ち着かない。
「塀と言うのは、」
しかしどうやら、今回は酔わずに酒は眠りをつれてきたようだ。開いた目蓋が再び重くなり、完全に塞がる。自分のものではない口が、自分の響きと口調とで、何事か語るのを聞きながら、雷蔵は眠りに沈んでゆく。
「建てた後には外からの敵を防ぐ。でも逆に、元から内側に敵がいたら、それと一緒に味方塀の内側も閉じこもってしまうことになる。」
「だから?」
話に脈絡がなさすぎた。
「だから塀っていうのは不便だよね、って話だよ。」
「わけがわからん。」
ああ僕もだ。眠りのなか相槌を打つのを最後に、雷蔵の意識は眠りの底に沈んだ。
「大事なのは外側と内側の線引きで、大事なのは線をひくということだ。内側から外側へ、外側から内側へは行かれない。動かない塀も使いよう、ということだよ。」
しばらく黙って、八左ヱ門が唸った。
「便利だっていいたいのか不便だっていいたいのか、どっちだ?」
「陰は陽を兼ねるってこと。」
「ああ?」
しー、と囁くような声で雷蔵のふりをした三郎が、眠った雷蔵を指した。ああ、と口を押さえて、八左ヱ門もそっと立ち上がる。
最後に障子を閉める前に、障子のまん前に三郎は酒瓶を置いた。
「…利くかねえ。」
呟くような独り言が、不思議と八左ヱ門の、耳に残った。
|