07
不思議な夢を見た。
誰かがしきりに、障子を開けようとするのだが、開かないのである。細い人影を、夢現に障子の向こうに見たような気もするのだけれど、すぐに睡魔が押し寄せてきて定かではない。やがて、なんだか犬猫があけてくれとせがむように、何度か戸を前足や鼻先で擦るような音がカタリカタリと聞こえていたのだけれど、それもじきに止んでしまった。なんとなく、生家で飼っていた犬を思い出す。夢だからこんなにも脈絡のないことを取りとめも無く思い出すのだろう。そう冷静に眠ったまま判断する自分が、雷蔵は不思議であった。
しんとしていた。
夕焼けだろうか、早朝だろうか、深夜だろうか。時間の感覚がない。
目蓋を閉じた暗闇の中、三郎の白く、とがった指先がその闇に真っ白な線を引く。
「こちらが内、こちらが外。」
どこからか三郎が、雷蔵の声で鼻歌を歌うようにそう言っているのだけれど、闇の中雷蔵が見回しても指先しか見受けることはできなかった。よく考えればおかしな話だ。布団の中に確かに自分が横になって眠っているのを自覚しているのに、暗闇の中に片割れがいないかと目を凝らす自分がいる。二人の自分を、もうひとり、外側の自分が眺めているような、そんな心地だ。閉じた闇の中はうっすらと寒く、しかし布団の中の自分は、あたたかな綿のぬくもりに包まれているのを感じている。
かすかな酒の匂い。指先の引いた線は、星を砕いて撒いたように、白く煌いて見えた。
――それはなに?
言葉は出なかったが伝わるとどこかで知っていた。上級生のような口調で、すぐに三郎の声が返った。それはもちろん、雷蔵の響きを模している。
「うん、これはな。線だよ。」
――見ればわかるよ。
その返事に、そうだなあ、とのんびり三郎がどこかで笑って、指先ばかりが線を引き続ける。よくよく見るとその指先は、彼のまわりをぐるりぐるりと、回り続けているのである。
「大事だろ。内側と外側、分けなければ。」
――なぜ?
「見つかりたくないんだよ。」
囁きは近く、すぐ背中に、三郎の目があると思った。
雷蔵は振り返った。
暗闇があるばかりだ、なにもいない。しかし振り返ったその背中に、たしかにやはり三郎の目がある。布団の中の自分が、暗闇の中背中を気にする自分に告げる。後ろに、いるよ。そこに、ほら。
「内側に、あれをいれたくないわけではない。」
――あれってなに?
「外側に、あれをしめだしたいわけではない。」
――三郎!
「俺は雷蔵だよ、雷蔵。」
四人目の雷蔵が静かに歌った。
暗闇がそこにいた。布団の中の雷蔵と、背中を気にする雷蔵と、それを眺める雷蔵と、その外側を取り巻く闇が、らいぞうだよ、ぼくもらいぞうだよ、と繰り返しうたう。
またふいに、遠くで障子を前足がひっかく音を聞いた。なんとなく、外は真っ赤な夕焼けなのではないかと思われた。
「線は便利だよ、内側に閉じ込めることも、内側に入れさせないこともできる。」
暗闇を優しく、指がなぞる。酒を浸した指先が、なぞり続ける。
その話をもはや無視して、雷蔵は三郎を探した。暗闇のうたう声を無視する。眺めている遠くの雷蔵が、ちがう、もっと、みぎ、みぎ…と繰り返し遠くで囁きかけ、布団の中の雷蔵が、ふいに呟いた。
「そのまままっすぐ、」
いっぽ踏み込んだ。
踏み込んだつま先から虫が散るように暗闇が解けて、いつかの薄野原が広がる。
夕焼け。
風に髪を靡かせて、半歩ほど前に三郎が立っていた。もちろん雷蔵の顔をして、ひたりと彼を見つめている。手に何かを持っているようだが、薄の中にそれは埋もれて、見えなかった。不思議にくらい緑の目。雷蔵を見て首をコクリと傾げてみせる。
「なんどくりかえしてもおなじことだ、」
唄うような、声音であった。あきらめたような、それでもやはり楽しげな、どこか退屈した響きであった。
「お前はやはり、俺を見つける。」
そう言って、片手で右目を覆うと、三郎は指の隙間から目だけを覗かせて雷蔵を見た。
いつか薄の間から、覗いたのとそっくり同じ構図。目玉だけが、違う生物のような、錯覚を覚える。
後退さることも、進むこともできず、ただ雷蔵はだまってその三郎の所作ひとつひとつをじっと見つめていた。なにかに気づいたように思ったが、先ほどから障子を引っかく音がうるさいのだと大分存在が遠くなった布団の中の三郎が、呻いているので集中することができない。尻尾を掴みそうなのに、するりと逃げようとするその何かの"気づき"を逃すまいと眉間に力をこめるほど、布団の雷蔵の耳が拾う音ばかりが届いていけない。薄野原も、もはやほどけようとしているのだと、遠くの雷蔵が客観的に述べた。
おそらくその通りである。
雷蔵が、いや、三郎がずっと薄に隠れていたもう片方の手を持ち上げた。その手にはきっと、酒の満ちた皿を持っているのだろうと、雷蔵は思っていた。
しかしそれは、外れていた。
狐面。
「そして俺もまた、お前を見つける。」
それを今度は顔全体に押し当てて、ふたつの穴から目玉を覗かせ、三郎は笑ったようだった。
ぐにゃりと景色がゆがみ、暗転する。ピシリと石を打つ音と、獣の甲高い悲鳴。それきり。それきりなにも聞こえなくなった。夕焼けである。静かになった部屋の中に、雷蔵の寝息だけが小さく満ちた。
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