08
まるでなかったことのように、明後日(みょうごにち)の朝には雷蔵の熱が下がった。
目覚めた時体が軽く、体の隅々まですがすがしいような気配が満ちていた。
むんとひとつ伸びをして、布団から出る。
朝独特の白い光がななめに差し込み、室内に薄墨色の影を投げ込んでいる。三郎はもう起き出してどこかへ出かけたらしい。
布団をたたみながら三日間の間に進んだ授業のことを考えた。忍びになろうという者が、まったく"精神的な疲労"などという理由でダウンしてしまうだなんて情けない。先生はなんと言うだろうか。いたわりの言葉をかけてくれるのだろうとわかりきっていただけに雷蔵の胸がズシリと重たくなる。
しばらく畳の上を光がすすむ様を見ていた。どこかで雲雀の鳴くのが聞こえる。
「雷蔵、起きたのかい。」
自らの声が、自らの顔が障子を開け放ち、光を背にほほえむのを彼は見た。
しばらく二人とも、黙っていた。
「ああ、心配かけたね。もう大丈夫みたいだ。すまなかったね、…、」
少し言葉を切って雷蔵は不思議なかんじに微笑した。
「雷蔵。」
そう呼ばれた三郎がわずかに眉を上げ、雷蔵はなお微笑する。
妙に落ち着いた穏やかな心持ちでいるので、なんとも静かな微笑であった。雷蔵のふりをしたまま、三郎はしばらく黙っていたが、にっこりと笑うと「三日も寝てたら腹が減っただろう?飯に行こうよ。」と言った。雷蔵はそれにうなずくと立ち上がり、三郎の後へ続く。
三日の内にあんなにあった酒は空になってしまい、瓶だけがゴロリと重たく軒下に転がっている。誰か先生に見つかったら怒られるだろうかとチラと考えたが、あまりに瓶は古びているのできっともう何年も前からそこにあったように思われるだろうと結論づけて、雷蔵は歩いた。
妙に落ち着いた気分で、なんとなくおぼろに、なすべきことがわかった気がする。三日も眠ったものだから、元から悪くなかった頭が、より良くなったのかもしれない。その妄想は馬鹿げていたが、別段悪いものでもない。
食堂への道のりでも、二人はとくに会話することもなかった。黙々と並んで、朝の光が斜めに差し込む渡り廊下を抜けながら、前を歩く三郎の背中を、雷蔵は何を思うでもなく見つめる。自分の背中というものを、きちんと見たことがないが、鏡を合わせて首を捻らずとも雷蔵は知ることはできた。三郎の背中は、おおよそ寸分の狂いなく、雷蔵の形をしているのだ。
黙っている間にも雷蔵の心中には昨夜の夢や今までのこと、これからのこと、様々なものが去来していたが、どうにも言葉にすることができない。なあ三郎と呼びかけようと思うのにうまくいかない。
―――なぁ、三郎。
―――ら、い、ぞ、う。
―――…なぁ、雷蔵。
―――なんだい雷蔵。
そんな会話がありありと浮かぶのに、脳内ですらそこから話が進まなかった。
話しかけてなにを語りたいのだろう。よくわからない。どこかで語るべきことなど何もないと感じている自分もいる。三郎はあまりに夢で多くを語った―――馬鹿だな、ただの夢なのに。
明るい庭で、地面を啄んでいた雀がふいに飛んだ。
朝の食堂は賑わっていた。その平和な騒々しさは、雷蔵には十年ぶりにも思われた。
食堂では、が額を腫らしていた。
白い額に痛々しく浮き上がった赤い跡を、倫子は転んで打ったのだと言った。誰もその説明を疑うこともない。彼女は事実よく転ぶ。運悪く尖った石にでもぶつけたのだろう、やんわりとわずかにそこは瘤になって、数日後には青く痣になってしまうだろうと思われた。
傷はの非力さを物語っているようだった。なにも不安はないのだと。見て、見ろ、見な。勝手に転んで自分で打って、大事な顔に痣を作った。おそれるにもたらぬ、少しばかり間の抜けたただの娘ではないか。
どこかで自身がそう言うのに、それでもなお雷蔵はそう納得しきれずにいる。石で打った。なにかが妙に、ひっかかる。何かをわすれているような――
「放っておけ。」
滑らかな額にあまりにそれは痛々しくて、誰もが同情してやる中で、三郎は静かにそう言った。思ったよりも真面目で、不思議と内側へ向かうような響きがあったので、雷蔵はおやと思った。思ったがそれだけで、そこから思考が続かなかった。小鳥の巣のようなお喋りが満ちている。「おねーさん大丈夫?」良い子達の声。腹をすかせた育ち盛りの行列は、朝の眠気にも負けず夜と比べると格段に早く進み、気づけば雷蔵たちの順番が来た。顔を上げ、にこりと笑うとがおはようと言う。三郎と同じタイミングで、おはようと返した。別段図ったわけではない。
「寝込んでたんだってね、大丈夫?」
そう言いながら、はおかずをこっそり一品増やしてくれた。もうどちらがどちらか見極めることを諦めたのか、少しあきれたように片頬で笑う。なんと言えばよいかわからなかったので、ただ「ありがとう」と返した。
変わったことはひとつだけ。お互いがお互いを三郎であると主張しなくなっただけのこと。今は互いが、雷蔵と呼び合う。三郎なぞ存在しないのだとでも言うように。
「まったく雷蔵は鍛え方が足りない。」
「おや、参っていたのは雷蔵だろう。」
「それもそうだね。」
「体がなまっていけない。」
「授業も遅れてしまったし、」
楽だった。自分のままでいい。相手が自分ではないと、ムキになって主張することはない。こうしてただただ普段の通り、自らとひとりごと、繰り返して会話するだけ。それだけでこんなにも楽になれる。
「じゃあさん、さよなら。」
――今喋ったのは本当に僕だろうか。
それすらよくわからず、しかしどうでもいいことのような気がした。たしかに自分が雷蔵であるということが彼にはわかっている。それだけで十分だとどこかで感じているのだ。雷蔵である限り、正気を失うことは無い。やっかいな分身も、自分であると認めてしまえば自ずと制することができるようにさえ思う。思考をどこかで共有しているような、そんな間隔さえ雷蔵は持ち始めている。
なんだかお前ら病気をしてからゾッとしたな、と向かいに座った八佐ヱ門がぽつりと言った。
あの日二人を見分けて見せた彼にも、もはや区別は、つかぬらしい。僕にももうわからないよ。どこかで鐘が鳴る。
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