10.
「不破くん、」
渡り廊下で夕暮れ時に、雷蔵はふいに呼び止められた。
振り返ると立っていたのはだった。少しさびしそうに、微笑している。
食事の準備の途中だったのだろうか、雷蔵を見かけて、あわてて出て来たのだろう。たすき掛けした腕が白い。細い腕。一瞬呆ける。
「鉢屋三郎に伝えてほしい。」
聞いておくれ、そのままなにも言わず。の微笑は不思議に遠い。
なにか雷蔵が言う前に、は、私には君が鉢屋三郎なのか不破雷蔵なのかわからないから、とそう言った。君がどちらでも構わない。不破雷蔵なら鉢屋三郎にそのまま伝えてくれればいいし、鉢屋三郎なら不破雷蔵のふりをしたまま、聞いてくれればいいからと。
「私の負けだ、」
白い頬。淡々と言葉を落とすの顔にいつもの快活な笑顔はなく、あのぞっとするようなおぞましさもなく。ただ静かに、少しくたびれて遠いところにある。それでも背筋をまっすぐとのばし、雷蔵を少し見下ろしていた。
声ばかり不思議と近い。
「好きに生きろ。」
一瞬の声ではないようだった。それは男の声にも、女の声にも聞こえた。
すぐ耳元で囁くように、その音は雷蔵の鼓膜を震わせた。石を放り投げるような、花を投げ込むような、奇妙になげやりで、けれどもなにか、なにかがこもったことば。
雷蔵にはその意味を、拾うことができない。奇妙に複雑に絡み合って、それを解いてくみ取るには、彼には決定的に情報が足りない。これをほどいてくみとれるのは、きっとたったひとり。
そう、これは三郎こそが、直接聞かなくてはならない言葉だ。
そう直感が雷蔵に告げるのに、彼は声を発するどころか、まばたきひとつだってできやしなかった。じわりと背中が汗でにじむ。
の白い指先。静まり返った眼の黒。
「それだけ。…お願いね。」
どれだけ沈黙していただろう。
それはやはりわずかな時間のようにもずいぶん長い時間のようにも感じられた。
夕日が雷蔵の右側から照りつけている。秋の日は短い。恐ろしいほど美しい夕焼けだ。茜と藍の、不気味に光り輝くまだら模様。その上には真っ青な夜、一番星ひとつ。カラスが鳴く。
は頭を下げるときびすを返し、去ろうとする。
どこへ。
薄の柄の袂が揺れた。秋風に揺られてふわりと揺れた。
「さん!」
金縛りから解かれたように、声が出るのと同時に汗がどっと吹き出た。口の中がカラカラだ。夕日がとてもあついんだ。なにかが目を塞いで、見えなくしている。なにかが耳を覆って、聞こえなくしている。なにかが眼を開いて、あまりに多く見えすぎる。なにかが鼓膜を震わせて、あまりにうるさい。
が振り返る。その目のそこのない真っ黒。
「なに?」
一瞬その目に、かすかな期待のようなものが浮かんだように思った。
「あなたは"だれ"なんです?」
その言葉に、合点がいったようにがわらった。先ほどかすかに浮かんだ期待が、あきらめに変わっていた。
「…不破雷蔵くん。」
「はい。」
やっぱり、とそう眉を下げて、が草履の先で地面を蹴った。じりじりと日が沈む。
カラス、鳴いている。――くるわあ、くるわあ、きみをさがしてる、きみをさがしてるううぅ。
「かこめ、」
の口が動いた。やはりずいぶん遠くの動作に感じられて、雷蔵にはならない。
「かこめ。」
節つけた歌い方。小さな頃に遊んだね。輪になって唄った。
――知ってるか雷蔵。
いつかの三郎だ。まだ背が低く、ほら、すぐそこに立っている。
あれはおそろしい遊びだよ。おそろしい遊びだ。そんなことも知らずに、お前たちはあれで遊んだことがあるんだろう。
あれは、
「うしろのしょうめん、」
がすっと左手で、雷蔵の背後を指した。誰かいる。
はっと振り返った。
「だーあれ。」
の声。
誰もいない。
もう一度振り返ると、すらも帰えて、影も形も見えなかった。カラス、鳴いて、くるわああきみをさがしてるう。夕日が落ちる。
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