11.
―――わたしのまけだ、
「…すきにいきろ。」
ほとんど日も暮れた真っ青な部屋の中、三郎がいましがた雷蔵の言った言葉を繰り返した。それに雷蔵は、同意の意味を込めて頷き、一方の三郎は、顎に手を当て、床の一点を凝視している。
「"あれ"がそう言ったのか。」
こくりと雷蔵は頷いた。
"あれ"。
三郎がを、今まで決して名前でも生き物らしい呼称で呼んだこともない。たしかにこの言葉を雷蔵に告げた時、はまるで、石でできた像のように、直立していた―――。思い出して少し雷蔵は身震いをする。雨宿りに転がり込んだ古びたお堂で、ふっと暗闇に目が慣れたころ、沈黙のまま直立し続ける仁王像に気付いたときのような、そんなヒタリと忍び寄る空寒さ。
「"すきにいきろ"。」
再びその言葉を繰り返し、三郎が黙り込む。
雷蔵はそんな三郎の様子をじっと見つめながら、部屋の隅に正座していた。空気はだんだんと暗く、夜の紺碧を増していく。知らないうちに水が満ちるように。
ヒタリと夜は知らぬ間に満ちる。
「…どういう意味?」
雷蔵は初めて問いを発した。
三郎は答えず、その目を床から雷蔵にぐりんと移した。夜空の漆黒をはめ込んだような、色のない目だった。
「しりたいのか?」
その目がじっと、雷蔵を見る。いつか薄野原の向こうで、同じようにその目が彼を見ていた。違うのは、そこに感情のないこと。あの日雷蔵を見つめた目玉は、見つめられたこちらがわくわくするような、好奇心いっぱいの、なまいきそうな目だった。
しかし今、三郎の目玉は、ちんもくしている。それこそ石の像のように。打ち捨てられた明王のように。ガランとして、乾いている。
噫この少年は。
雷蔵は喉の奥がヒリリとひきつるのを感じる。
ああ、この、自分の顔をした、この少年は、
「三郎、」
勝手に口が動く。
どこか遠くで、それを尋ねてはならないよ。誰かが言う。いつか夢の中にいた、遠くの雷蔵自身だろうか。それはすぐ雷蔵の耳元で、何度も何度も念を押すように、しかしほとんど聞き取れないほど小さく、呟き続ける。尋ねてはならない。見てはならない。聞いてはならない。ひらいてはならない。喋ってはならない。閉じてはならない。知ってはならない。織ってはならない。ならない。ならなああああああい。
なぜ?
その言葉に、薄野原で途方に暮れた、あの頃、幼い少年のままの雷蔵が、首を傾げる。なぜ。なぜなの?何を恐れることがある?だって三郎と僕は。
そこで少年は、ぱっと現在の姿に切り替わる。
三郎は?
「三郎おまえはいったいなんなんだ?」
今までだれもが疑問に思い、しかし雷蔵だけは感じなかった疑問を、ついに今彼も抱いた。青い影が、部屋全体に満ちていた。
夜だ。いつの間にか、夜は部屋をすべて埋め尽くしていたのだ。
それに三郎の目が、暗く、色を変える。
「しりたいのか?」
遠く遠く、近く近く、口ではない何かを通して、その言葉が発せられた。空気を介さず発されたそれは、雷蔵の頭に直接響いた。三郎の口が動いているのに、そこから音が出ている気がしない。
「俺はお前で、」
三郎の目。
「お前は俺だ。」
指さす先は、心臓だ。
「けれども決して、」
どうしてそんなに、その眉ばかりが、苦しそうなのだろう。さぶろう、と呼びかけて、どこか痛いのか、苦しいのか、尋ねてやりたい。なのに言葉が出ない。夜が耳元で囁く。もう戻れないよ。お前が疑問を持ったから。どうして何も知らず何も疑問に思わない、こどものままでいなかったの?
「俺はお前にはなれない。」
はっと気がつくと、三郎が目の前に座っていた。
その手が、ぎりりと雷蔵の腕を握る。薄い皮膚の下、血管がせき止められ、どくどくと音が鳴る。
ああ恐ろしい。
自らの胸を支配する感情を、雷蔵はふいに理解した。おそろしい。僕は、さぶろうが、おそろしいのだ。気がついて愕然とする。初めて雷蔵は、自らの相棒を恐怖した。
「だがその逆も然り。」
黒であるはずの三郎の目。しかし今は三郎が、黄金の目でわらう。どんなに変装を重ねても、それだけは変わることのない、瞳の色。しかし今それは、夜に浮かぶ満月のように、発光している。
もうずっと、同一だとおもっていた。
三郎。
「お前も俺にはなれない。」
ぽつり、と涙のようなつぶやき。泣いているのと尋ねかけた言葉はやはり、喉の奥に詰まる。
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