12.
かみなり。
沈黙が降りた部屋の空気を、大気の震えが裂いた。
雨だ。
大粒の滴が、屋根を、地面を、木々を打つ音が幾重にも重なって、大きく大きく響きだす。ザアザアと、激しい音だ。滝の中に潜ったようだ。遠くで突然の豪雨に、悲鳴を上げて建物の中へ駆けこむ生徒たちの、甲高い声が聞こえる。
「…さぶ、」
名を呼ぼうと、思ったのだ。
しかしするりと、雷蔵の腕を握っていた指が離れた。雷が鳴っている。光っている。ずいぶんと近い。三郎が背にした障子の向こうに、青い龍が走る。空の割れるような音、雨、雨、雨。
三郎がわらった。
今度こそそれがは、さびしそうで、暗い喜悦を含んだ、奇妙に遠い、場違いな微笑。
「どうして…!!!」
障子が開け放たれる。
三郎が走ってゆく。走ってゆく。
土砂降りなのも裸足なのも気にしないで、雨の中に走り出ていく。その間もやはり彼は笑っているようだった。顔面に雨を受け、長い髪をぬらし、真っ暗な夜のなか、駆けてゆく。アハ、とこらえきれない笑いが、その喉から洩れるのを、たしかに雷蔵は雨越しに聞いた。
「待って!」
思わず反射で追いかける。
なんで、どうして、どうして、なぜ。頭の中は混乱してゆく。
なぜなの三郎。なぜ。
―――おれはおまえで、
おまえはおれだ。
そうだ知っていた。あの薄野原で出会ったときから。確かに同一だったのだ。雷蔵は形を、彼に明け渡したのだから。あの日。薄の影から自分そっくりの少年が飛び出してきたあの瞬間から、彼らは双子であったのだ。
その不思議さを、不思議と思わず生きて来た。
なにもかもわけがわからない。って誰だ?三郎って誰だ?…僕って誰だ?
なぜ僕を選んだ、言葉は胸のあたりに使えて出てこない。
「なんで…!」
なぜ僕なんだ。なぜあの日、三郎は自分を片割れに選んだ。
「どうして僕なの!」
どうして自分でなければならなかったろう。
噫なぜ、なぜ彼の姿を模して、なぜ彼の声を姿を形を盗って。
『ばれてはいけない。』
『みられてはいけない。』
『みつかりたくないんだよ。』
『それでもお前は―――』
『俺を見つける。』
真っ暗な雨のヴェールの向こうへ、三郎は駆けてゆく。そのまま自らの形が、豪雨の向こうに消失してしまうような気がして、雷蔵は必死にその後を追った。ザアザアと雨音なかりがさわがしく、雑音混じりの曇天は夜であることも相まってひどく暗い。バシャバシャと水たまりを蹴る音が、追いすがろうと走る彼の耳から遠ざかり、振り返らざる三郎はやはり笑っている。
「どうして?」
アハハ、笑っている。
「誰でもよかった!あの狭い世界から抜け出せるなら!」
その目は暗い。きっと泣いてる。
雷蔵は確信している。三郎、泣いてる。雨が肌に刺さって痛いほどだ。どうしてこんなにうねるような大雨。けれどしんと静か。
「おれはじゆうだ!」
雨の中に取れた叫びは、どうしてそんなに痛々しいのか。
三郎は立ち止った。雨はやむことがなく、青光が彼の顔を不気味に照らす。雷蔵も彼から少し離れたところで立ち止った。いつか薄の野原で対峙したときのように、二人は雨越しに見つめ合った。いつかの夢のなかと同じように。ついさっき、部屋のなかでそうしていたように。
「お前と俺は似ている。」
笑う声は空っぽだ。
「あの日、迷子になって途方に暮れていたお前の姿は、なア、雷蔵、とてもよく似ていた。」
少しばかり隔たった距離にいるのに、こんなに激しい雨脚だのに、その声はすぐ耳元に聞こえた。雨が体温で生ぬるくなって、髪から頬へ伝って落ちる。じっとりと濡れて、気持ちが悪い。
「似ていたから助けてくれたの?」
「…おもしろそうだったからさ。」
「逃げ出したい場所があったの?」
「…昔のことだ。」
ならなぜそんなにも傷ついたような目をするんだろうか。その場所はどこにあって、その場所とはなんだろうか。逃げたいと思ったことは一度もないよ。やっぱり君と僕は、似ていても違う存在だよ―――。
そう言おうと思ったのに、言葉になりきらない。
くるりと再び身をひるがえして、三郎が駆けてゆく。
どこへ。
追いかけようと踏み出した足が、ぬかるんだ泥の上を滑った。つめたい泥水に飛び込む自らを、スロウに感じながら、雷蔵は確かに飴の中、あの声を聞いたのだ。
「おぅい、」
三郎を呼ぶ声。彼を連れ去るその声を。
噫、どうか、(つれていってくれ)
涙が出たのはなぜだろう?
雷鳴は止むことはない。雨はますます強くなる。泥の中、雷蔵はもはやなにも見ない。
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