13.
真っ暗な空間に、が小さくぽつりと正座していた。首と顔、手首から先の白が、黒の中発光しているように見える。
世界はどこまでもどこまでも暗い。果ても見えぬ一寸先があるかないかも知れぬ闇。それでもその上に、は鎮座しましている。真っ白な頬をして、目の前の虚空に、ツイと冷たいまなざしを向けたまま。
「さん、」
雷蔵の声だけが、一寸驚いたように転がった。それに表情をピクリとも変えず、或いはそんな声など聞こえなかったかのようになにもない暗闇に無表情を向け続けている。聞こえなかったろうかと彼は最初首を傾げ、それから傾げた首がないことに気が付く。いつかの夢と同じだ。彼の存在はこの暗闇に溶け込んでしまって、を四方八方から取り囲むその暗闇の中に、彼はわずかに混入された点に過ぎないのだった。
僕はここに存在しているが、それを知っているのは、それをそうと認識できるのは僕だけなのだろうか。
存在しない喉で発した声が、聞こえなかった様子のを見るに、そう考えるのが妥当と思える。ここはいったいどこだろうか。存在しない頭で考えるその遠くで、しらないの、と誰かが訊ねて囁いた、ような気がする。
「―――、」
ふいにが、なにもない暗闇に向かって口を開いた。それは誰かに呼びかけるような調子の響きで、しかしよく、聞き取ることができない。
「ずっとお前の帰るのを待っていたよ。」
ああなのにと言葉は続く。
「うらやましい。」
乾いて何の味もしないその言葉。吐き出される息は嘆息の色。
「私は、お前が、うらめしい。」
ころりころりと独り言だ。なにかを一言発する度に、の口からは銀の真珠が零れ落ちた。まぁるい小さなその珠は、生ずる端からポロポロと暗闇に転がり落ちて、どこぞへと散らばっていく。
「お前はいい。」
ころり。
「お前はいい、」
ころり。
真珠は淡く、白くかがやく。夜空に星を撒くようにして、は静かに乾いた、現実味のない恨み言を吐き出していく。
「お前のせいで、私は、私は――――、」
一際大きな珠がその口端から零れた。噫そうか、涙に似ている。雷蔵は密かに、その真珠のまぁるい美しさにため息を吐く。は一度、膝の上にそろえた自らの指先に視線を落とし、それから再び視線を上げた。
髪に隠れたその顔が、まっすぐ正面を向いた時には、そのおもてに真っ白な面を被っていた。
赤い飾り紐。ぞっとするほど静かな面の貌。竜女―――。その沈黙の表情の下に塗り隠された狂気にも似た艶やかさはなんだろう。竜女は般若が、鬼女が悟りを開いた姿だ。噫、それを教えてくれたのは誰だった?
「さん、」
聞こえぬと知りながら声を発した。その途端に雷蔵の足は確かに暗闇を踏んでいた。がそっと振り返る。無表情の面、動くことのない静かに微かな、ほんのひと匙に満たない微笑の口端。
「お前はいい。」
その声は面にくぐもって、どこか低く、または高く、二重に重なるように聞こえた。
「―――かたちをもらえた。」
ボロリ、と黒く塗られた面の小さな口から、大きな真珠玉が落ちる。落ちる。
今やそこらは転がり広がった真珠に溢れて、晴れた冬空の景色。噫もう冬が来るねと、言ったのは誰だ。鬼ごとをして遊んだのは?隠れ鬼、いつまでも見つからなかったのは?カラスはなぜいつも、誰か探してる?くるわぁ、くるわぁ、きみを、さがしてるうぅ。
「いいだろう。」
雷蔵を挟んでのちょうど反対側。自らの声が響くのを彼は聞いた。
「さぶ、「いいだろう。」
狐の面をつけた自らが―――自らの面を付けた上にさらに狐面を被った三郎が、暗闇の中佇んでいた。淡々とした、ちっとも自慢げにも得意げにも聞こえない、どこか乾いて悲しげなその響き。雷蔵を挟んで、三郎はだけ見ている。もまたそうだった。せっかく体に落ち着いたのに、やはり雷蔵はそこにはいないようだった。
「俺は形をもらった。俺は自由だ。俺はもう何にでもなれるし何処へだって行ける。」
いいだろう?だからうらめよ。
どこかで三郎が、雷蔵の声音で囁くのだ。
それをしばらくじっと見つめて、それからは、静かに首を横に振った。するりと赤い紐がほどけて、暗闇に落ちる。現れたの顔はかすかにうっすらと咲んですらいた。優しくどこか諦めた、それでも慈愛のこもったまなざしだ。うらみたくともうらめない、いや、うらんでもよい相手をうらめるはずのないときに浮かぶ優しさだ。どうしてお前を怨めよう?だってお前は―――。
「いいや。」
三郎の顔が狐の笑みの下で、ぐにゃりと歪むのを雷蔵は感じる。
「―――いいや、私は決して。」
おまえをうらむまい。
さあと闇がカラスの形になってあちこちへ羽ばたいていく。
そこはいつかの薄野だ。
朝の光に穂先は銀に輝いて。
はもはや影も形もない。
銀の穂が揺れる中、三郎が少し、狐面を被ったまま、下を向いて泣くようにしたのを、雷蔵は見た。
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