14.


  雷蔵は泥のなか倒れているのをお使いから帰ってきた文次郎に偶然見つかった。もう少し通りかかるのが遅ければ、泥が口に入って窒息したかもしれないと言われた。雷蔵はあくる日の朝、学園の池に仰向けに浮かんで眠っているところを学園長に見つかった。長い髪が水の面に広がって、透き通るように白くなった顔はそれでも他人のものだった。水死しているのかと、早朝から老齢である学園長の寿命を、軽く三年は縮ませた。
 そうしてふたりは、揃って高い熱を出し、保健室を占領する。
 昨晩の豪雨が嘘のように、明るい緑の朝だった。

 うーんうーんと唸りながら、雷蔵は横で同じく唸っている三郎を見た。
 おでこに濡れた布巾を乗せて、唸っているのは自分の顔だ。少しおかしくて、小さく笑うとギロリと睨まれた。慌てて首を竦めると、「コラ。」とやわらかい声が落ちて来た。
「動いちゃダメだよ。布巾が落ちちゃう。」
 伊作が年長者らしくほほ笑む。
 新野先生は先ほど薬草を調達しに町へ下りて行った。―――まったく世話のかかる子たちだとしっかり文句を言ってから。伊作のガサガサと荒れた手が、雷蔵の布巾を正しい位置になおした。ありがとうございます、と言うと、「委員だからね。」と照れたような言葉が返ってくる。
「二人揃って雨の中ぶっ倒れるなんて、ほんとに君たちって、おもしろいよねえ。」
 のんびりと感心したように、伊作が笑って、授業があるからと出ていった。おとなしくしているようにと、釘を刺すのも忘れない。

 ちらりともう一度、雷蔵が三郎を横目で見ると、唸りながら目をつむっていた。
 なんだか憑きものが落ちたように、"普段の"三郎だ。普段の三郎なら、ぜったいに風邪をひいたりなんてしないし、雨の中飛び出して行って熱を出したりもしない。それでもやっぱり、"いつもの"三郎だぁ、という感想ばかりが、雷蔵の胸を占める。
 あれら一連の奇妙な出来事は夢だったろうか。
 そんな風に思うほど、外は明るく、熱のせいで視界がおぼつかなかったり頭がふわふわしてはいるが、それ以外はいたって平和なのだ。ざわつくような不安感が、消えてしまった。
 あの雨の中、叫んだこともすべてみな、なかったことのようだった。
 どこかから逃げ出したかった三郎、自由になりたかった三郎、そうして偶然に、彼の形を盗った。そうして彼は、本当に自由になったのだろうか。もどることもなげくこともないだろうか。
 なにもかもが、よくわからないままだな。
 鉢屋三郎という人物が、謎のままであることに彼は気づき、あーあとちっとも残念ではない風に心の中でひとりごちる。
「あーあ。」
 口に出すとやはり、なんだと隣から視線だけが返った。それすらもおかしくて、雷蔵はくすくすと笑う。熱に浮かされているのだろうか。なんだかとても、不思議と胸の底が軽い。
「結局三郎は、なんにも話してくれないんだもの。」
「…、」
 悪かったよ、と小さく呟く鼻声。それに雷蔵は思わずぷっと笑い出す。
 なにもかもがわからないままだ。も、少しばかり不気味な出来事も、それから不思議な夢も、すべてが過去のこと、さらさらと水に流れて沈んだ笹舟のようだ。透明な水に清められて、不思議に静かで、どこか美しかったような印象さえ残して。
 布団をかぶり直しながら、雷蔵はゆっくりと隣で同じ顔で寝そべっている少年を見た。
 いつか薄の隙間から覗いた目玉。深い深い黒の底に、あやしい緑の潜む目だ。
「三郎はもう、」
 ゆっくりと自らの目が、優しくほほえんでいるのを彼は自覚した。どうやらその微笑が、に少しばかり似ているらしいということも。これはなんという情ろだろう。彼は自らの分身を見る。あの日自らの影を分け与えた子供を見る。そうと知らずに自由とやらを、与えた不思議な少年を。

「どこへも行かないの。」

 語尾の上がらない疑問文。
 それに三郎は、きょとりと目を見開くと、ニヤリと少し笑うようなふりをした。


20120218