なんとも思っちゃいなかった。 あなたのことなんて、本当になんとも思っちゃいなかった。 本当だよ。 その日シンドリア国にお勤めするある文官は、せっかくの華の金曜日だというのに残業で、すっかり暗くなって城下のざわめきも収まって聞こえない渡り廊下を早足で歩いていた。今から呑みに出るには遅いし、さっさと風呂に入って眠ってしまおう。どうせ明日も仕事だし。 早足にとことこ歩く平たい靴の、つま先がとこりと止まった。 白い影が廊下の先に落ちていて、ぎょっとしたのは一瞬で、次の瞬間には目を丸くした。 「あれえ、ジャーファルさん珍しい。こんなところで酔っ払って。」 上官のジャーファル政務官が、渡り廊下に等間隔にならんだ柱に寄りかかってぐでんとしていた。 「ジャーファルさん、ジャーファルさん、起きてください。」 「う〜〜〜ん、むにゃむにゃ、」 「こんなところで寝たら風邪をひきますよ。」 するとジャーファルさんは、すっかり細めていた目を薄く開いて、それからまた閉じてしまった。指し出した手がぱちんと叩かれて、文官はさらに目を丸くする。 「むにゃむにゃ。本当にひどい女です、私はあなたのことなんて、本当にこれっぽっちも。これっぽっちも…。」 なんのことだろうか。 ううむ、と首を捻った後で、しかし放っておくわけにもいくまい。ジャーファル政務官の前職を知らない文官は、果敢にも酔った元暗殺者を起こしにかかる。 「ジャーファルさん、ジャーファルさんたら。」 「うるさいな、今私は、忙しいんです。からっぽで。わけわかんないんです、我ながら、」 ころんとその目の端から涙が落ちて、そんな!ばかな! すっかり彼はパニックだ。おまけにジャーファルさん、そのまま柱にずるずるもたれて、地面に突っ伏してしまった。 「わあああ、ジャーファルさん、しっかり!」 これは大変一大事と文官の声を聞きつけた衛兵によってすぐさま人が呼びにやられた。ちょうどよく通りかかったマスルールがひょいとジャーファルさんを抱え上げ、あげく王様までやってきて「仕方がないな、」と眉を下げて困ったように、優しそうに笑って言った。 「すまないなぁ。うちのジャーファルくんが迷惑かけたようで。」 王様のもったいないお言葉に思わずガバリと平服しかけた文官と衛兵とを、まあまあと大きな手のひらで制して、シンドバッド王がわらう。 「大目に見てやってくれ。」 その目は少し、保護者染みていて、王様というよりもお父様みたいだった。 「彼は今、少し、悲しいんだ。」 何故です、とは文官も衛兵も聞けなかった。 ジャーファルさんはその晩夢を見た。 星空の真ん中であなたが笑って両手を差し伸べた。 ―――踊りましょう、ジャーファルさん。 底のない宇宙の真空に、どうやって我々は浮いているのか。細くて頼りないあなたの腕とワンピースが、をちこちに散らばった星屑よりも白く発光していた。 思わず手をとると、遠くで惑星が低い声でワルツを歌い始めた。 ―――私はダンスなんて踊ったこともありませんし、あなたのような白くて美しい手の方の手に、自分の手を重ねていいかなんてわかりません。 けれども一度繋いでしまった手を離すことができなかった。なんだそんなこと、とあなたは笑って。 ―――こうやってね、 ジャーファルさんの片手を細い腰に回した。それからその左手をジャーファルさんの右肩に、繋いだ右手と左手をやさしく絡めてすうっと南十字星の方を指す。思わず姿勢を伸ばしたジャーファルさんに、「そう、そう。」と嬉しそうにわらって、 ―――さあ、踊りましょう。 ―――はい。 と思わずうなずいた。勝手に足が三拍子のリズムを踏んで、きらめく宇宙の星の中、あなたの目の中に写った星明かりを見つめて、いつまでも二人、白い服の裾を揺らして踊っていた。あなたの睫の先に、星がひっかかってきらきらきらきら…見とれてため息を吐いたらそれは星雲になって、ああほら、北斗七星、きれいですねえ、。ええ、本当に。 そんな夢を見たよ。 その朝彼が泣いたかどうかなんて、聞かないで、どうぞ。 |