2 「取引きをしましょう。」 そう着飾った女は言いました。女と言っても、まだ娘と呼んで差支えないでしょう。彼よりは年のころは上に違いありませんが、十も離れているとは見えませんから、五つ、六つの差くらいだろうと彼は目星をつけました。ちなみに彼は自分の年をよく知りません。十かそこらだと思うのですが、しかし彼の体はもうすでに、屈強に逞しかったのです。それに対して、女はこの日差しの強いレームの国にいて、まるで日に焼けたことのないような白い肌をしていました。光も指さない地下牢にいて、内からほのかに白く輝くようでした。細い腕と足首につけられた銀の輪が、シャラシャラと涼やかな音を立てます。絹の着物。金の耳飾り。それらを見るまでもない、金持ちのご令嬢と言うやつに違いありません。いつもコロシアムの特等席に陣取って、命のやり取りを横目に酒と音楽、女と男と食事と血と快楽とに酔って耽っている連中です。 彼はしばらく、上半身だけ起き上がらせたまま、女を見つめていました。 それはやはりどこか人間の視線とは異なる、獣のもののようでした。女は鉄格子を細い指でぎゅっとにぎりしめて、彼を見返すばかりです。 一体どれくらいの時間が経ったでしょう。 ふいに興味を失ったように、彼は姿勢を元に戻しました。その頭を自らの腕の上に横たえて、静かに目を閉じます。今日生き残ったからと言って明日もそうだとは限りません。彼は自らの強いことを自覚し、自らの種族に誇りをまだ持っていましたが、それでも明日闘う相手が、自分より弱いとは限らないのです。少しでも眠って、ちからをつけておかなくては。 彼はそのことを知っていました。コロシアムの剣奴には、勝ちか負けしかありません。一日経っても勝敗がつかないその時は、擂鉢状の闘技場の真ん中に、血に飢えた本物の“けだもの”が投入されるばかりです。何故ならコロシアムに金を投じる連中の目的というのは、“絶対に自分が安全な場所で見られる”“本物の”殺し合いだからです。どちらかが、あるいはどちらも死ぬまで、闘いの幕が下りることはありません。飢えた獣の登場に、闘って傷ついた剣奴ふたりはいっとき力を合わせて獣と闘うか、互いを蹴落としながら獣を仕留めるか、二人そろって獣の餌となるか。選択肢は少なく、目的はひとつです。明日は生か死かしかありません。その中間などありはしないこと、彼は知っています。獣がダメなら毒矢。毒矢がダメなら毒虫。それでもだめなら魔物です。そうして常に、幕引きの最後、闘技場の真ん中に残るのは一人かそれ以下でなくてはならないのです。それ以外の命は許容されることなく、娯楽のためにただ費やされるばかりです。もはやどうして自分が戦うのか―――それはもちろん生き残るためでしたが、それにどんな意味があるのかすら、彼には疑わしいことでした。それでも野生の本能でしょうか。彼はただ機械のように、生きるためだけに戦い続けてきました。あるいは彼が最初から強すぎて―――生以外を選べなかったと言う方が正しいのかもしれません。 闘技場に表れたこのファナリスの少年は、今や人気の剣奴の一人です。 「取引きをしましょう。」 女の声がもう一度繰り返します。 面倒くさそうに薄目を開いてそちらをチラリとねめつけると―――彼は再びうっそりと目を瞑りました。ここから出てなんになるというのでしょう。彼の生まれ故郷はもはや遥かに遠く、いいえ、それ以前に彼の手足を縛るこの鎖のなんと重くて固いことか。彼はとっくに、徹頭徹尾諦めてもいたのです。 「あなたはこのコロシアムでも三本の指に入る戦士なのでしょう?」 まるで相手にされていない女は、それでも懸命な様子で言葉を重ねます。意味ないのに。欠伸をかみ殺すこともなく、彼は本格的に眠る体勢を取ります。足音も殺せない“ごれーじょー”が、こっそりとコロシアムの地下牢に入れるはずがありません。大方見張りにその腕を飾る輪っかのひとつでも握らせたのでしょう。 「あなたの強さを見込んでお願いです。どうぞわたくしと取引きしてください。そうすればきっと、ここから出して差し上げます。」 馬鹿馬鹿しい。取引きもなにも、彼はこの身以外なにも持たない。そんな相手に話を持ちかけてくるこの女の言う取引きと、明日も明後日もこのコロシアムで行われる命の駆け引きとに、一体何の変わりがあるというのか。もう気にせずに眠ろうとうとうとし始めた彼の耳が、カチャリ、と日に二度しか聞くことのない音を捉えてピクリと動きました。 日に二度だけ。 檻から出る時と檻に帰った時の二度だけ、その音はするのです。 彼は今度こそ勢いよく上半身を起き上がらせました。彼の目が未だかつてないほどに見開かれます。白い女が檻の中に立って、彼を見下ろしていました。 もう今日だろうか、まだ昨日だろうかと彼は真夜中に考えていました。これは今日三度目の音だろうか、それとも、今日初めての音だろうか―――。 |