3 白く細い指先が自分に向かって伸ばされるのを彼は呆然と見つめていました。こんなことはかつてないことだったからです。日々は単調な繰り返し、命の取引きですら、もはや彼の心を波立たせることはありません。なぜならそれもまた、昨日と同じ今日だからです。けれど真夜中、今日なのか明日なのかもわからぬ“今”、初めてのことが起こっていました。 「あなたの力をわたくしに貸してください…ファナリスの戦士よ。」 懐かしい呼び名はしかしすでにコロシアムで使い古され、もはや彼を貶めるものにほかなりませんでした。 鎖で繋がれた獣の彼でしたが、それでも彼は人間でした。そうしてそれ以上に、彼はこの死ぬまで終わらない日常に捕えられた剣奴であったのです。 「…かえれ。」 彼はじっと、ふつうの女性なら睨まれただけで息をのんで逃げ出したくなるような鋭い目つきで低く唸りました。 「帰れません。」 「…かえれ。」 「いいえ。」 一歩一歩と、女は近づいてきます。銀の靴。 「…かえ「シッ。」 小さく言葉の続きを制され、そのまま勢いで床に引き倒されます。突然のことで思わず彼が目を点にさせている間に、女は彼の上にそのまま跨ってきました。いつもコロシアムの中央に引きだされる時、彼が裸足で昇る冷たい石の階段の上からは見張りらしい男たちの声がします。 「おい、交代だ。」 「おう…いや、もうちょっといるわ。」 「どういう風の吹き回しだ?」 これこれ、という言葉の後に、シャラ、と微かな金属の音が、彼の耳には聞こえました。 「立派な細工もんじゃねえか。」 「“お客さま”だよ。」 「へえ!あのチビスケにか。」 「お相手もまあ…まだガキだからちょーどいいだろ。」 下品な感じの軽口が聞こえてきます。 そう、剣奴の元に身分ある女性が、密かに一夜の“火遊び”で通ってくることは、珍しいことではないのです。殺し合いが娯楽として栄えるほどには文化が熟れて腐りかけているこの国では―――それらの遊びすらもただ黙って寛容されていました。むしろ少しばかりの危険や背徳、死、といったものが関連してこなければ心の底から楽しめないと思うほどに、世は享楽に満ち溢れ人々は娯楽に飽いていたのです。さらにはそう言った遊びは、むしろ見張りといった職業の人間たちには、よい小遣い稼ぎでもありました。黙って恭しく、着飾って暇と美貌と性欲と金を持て余した御婦人方から“小金”をもらって、黙って階下から聞こえてくる“音”にニヤニヤと耳を澄ませて、後を見送るだけの簡単なお仕事―――。 「それにしちゃあ静かだな。」 「そうなんだ、せっかくお越し召したんだから、ちゃあんと事を致されたか確認しねえことにゃあいただいた金銀に悪いってもんだ。ナァ?」 「違いねえ。ガキ同士勝手がわからなくて困ってるんじゃないかね。」 ヒヒじみた笑い声がここまで聞こえてきます。降りてきやしないかと恐れるように、あるいは彼をかばうように女は身を低くしました。そうすると自然と、こう、やわらかいお胸が彼の顔の辺りに押し付けられて、一見華奢な風体に見えましたが胸は意外と、これは、ちょっと。あのっ、ちょ。 めったにうろたえることがない彼をうろたえさせていることにも気づかずに、女はただ階上をじっと見つめています。降りてこられるとそんなに困るらしいとその理由を考えようとする思考を邪魔する人生の不思議、たぷんと揺れる女体の柔らかさよ―――ってちょっと待て彼の頭はもともと考え事には向かないと言うのにこの状況、どうしろと。 ちょっと意識が飛びかけていた彼でしたが、これはちょっと、言葉にできない! 愕然としながらもなんとはなしにその手が上の方に伸びようとしたとき、彼女は意を決したように階上をキッと睨みあげ、それから赤い顔で羞恥に耐えかねる、と言った表情でそれでも大きく息を吸うと、 「アッ…ああん!」 勘弁してくださいほんと。 |