なんとなく気まずい沈黙が地下牢を包んでいます。
 ひとしきりマヨナカノ・ジョージっぽい声をそれはもう恥ずかしそうに(それがまた押し倒された下からのアングルで見るとどうしようもなく下半身に以下略)、終盤ほとんど羞恥に耐えきれなかったのか真っ赤な顔で啜り泣きながらも(それがよほど演技よりも“らしい”ことにも気づかずに)階上の見張りたちがやれやれと階下に興味を失うほどにはながく発し続けて、ようやく彼女は口を噤んだ。もう階上から見張りたちの声は聞こえない。
 静か。「…失礼しました…。」蚊の鳴くような細い声で消え入りそうな呻き声。そっと静かに彼女は彼の上からどいて正座で赤い顔のまま下唇を噛みしめており、彼の方も生来の無愛想な無表情こそくずれることはありませんがなんとなく疲れ果てています。あと耳が赤いのと押し倒されていた体勢から起き上がって膝を抱えて体育座りの格好にちょっと前傾姿勢で座りなおしているのは仕方のないことです。むしろ見るからに本能で生きてそうなのによく頑張った少年。
「……えと、」
 ようやくボソリと彼が発した言葉に、ビクウ!と過剰なほどに細い肩を震わせて、それから大きな声を出すわけにはいかないので囁き声で精いっぱいエクスクラメーションマークをつけて彼女はその場にガバと両手をついて伏せた。
「すみませんでした!!!!!」
 むしろそれに驚いてますます勢いをそがれたのは彼の方で、ふう、と小さくため息を吐く。
「…なに、あんた。」
 語尾の下がらない尋ね方はそれしか知らないからだ。それにガバリとやはり勢いよく顔をあげて、女が彼を見る。そのときちょっと胸の方に目が言ってしまったのは仕方がない。この暗闇だから気づかれることもなかったろうが、なんとはなしに、後ろめたい、ような。女の肌は暗闇にびっくりするほど白いのだ。
です。」
 そういうことを、聞いているんじゃない。
「…なんできた。」
「あなたの力をお借りしたくて。」
 まださっきの恥ずかしさを引きずっているのだろう、目は涙ぐんでいて頬は赤い。さらさらとまっすぐに流れていた髪も土下座のためか少し乱れていて、その様子を眺めていると、せっかくまっすぐ伸びてきた彼の背筋がまたともすると斜めになりそうだった。
「いやだ。」
 きっぱりと発された言葉に彼女は、は大きく目を開いて、それから首を左右に振った。今度の涙は先ほどの名残ではなさそうだ。負けるものか。ファナリスの戦士は、そう簡単に心動かされたりはしないのだという、謎の使命感。しかしうっかりちゃっかりのボーイ・ミーツ・おっぱいで残念ながら目は冴えまくっていた。
 しかしこの女、自分より年下にこんなに頭を下げて恥ずかしくないのだろうか。
「おっ、お話だけでも!」
「…。」
「そこをなんとか!」
「…。」
「お願いします!」
「…。」
 こっちは黙っているのにそれでもなお話しかけてくる根性はなかなかのものかもしれない。
「…。」
「…。」
 じっとは堅い石の上に座ったまま彼を見ている。少し肩が震えている。一体夜明けまであとどのくらいだろうと彼はぼんやり考えた。こまったことにちっともねむくない。
「なに。」
 ついに根負けしたのは彼の方だった。話を聞かない限りは、この女は帰らないだろうと言うことだけわかった。蹴り出して追い出すには鎖の長さが足りなかったし、怪我をさせれば明日の試合に出るまでもなく命が終わるだろう。剣闘士と言えば聞こえがいいが所詮は奴隷だ。替えの利く消耗品―――もちろん彼の血筋はそれらの中で珍しいから重宝され珍重もされたけれど、この女が全身に飾っている金銀宝石すべてと天秤にかければどちらが高いかはなんとなく目に見えている気がする。彼はその希少性の故に人気が高いから、殺されはしなくても手ひどく傷つけられて、その状態でコロシアムの真ん中に立たされるに違いない。
「一週間――― 七日後の試合です。あなたが戦う相手のことです。」
 負けてくれとでも言うのだろうか。それこそ馬鹿馬鹿しくて彼はつめたい目を女に向けるばかりだ。この闘技場で負けろと口に出すことは、死ねと言うこととまったく寸分の違いなく同義だ。真夜中人目と恥とを忍んでお金持ちのご令嬢が“卑しい”剣奴の寝床を訪ねて言うことには、他の剣奴の命乞いだと。
 これはばかだ。
 彼は急に先ほどまで火照っていたような気がする体の冷えを感じた。同時に心の底まで冷える。今の今までずうっとながいこと、もう何年も何百年も何千年も、生まれる前から冷え切っていたような気がするのにおかしなこと。彼は体育座りを止めてごろりと横になった。もう寝る、という態度だ。しかしその態度にもめげず、は必死に言い募る。
「彼の名前はヴェルダです。あなたのような正式な剣奴ではなく、元は罪人です。大臣の長女と恋仲でしたが、ある日突然その恋人含む大臣一家を惨殺し、その咎で捕らえられました。しかし事件を起こすまでは、宮廷で名高い誉れある剣士だったので、死刑となるところを剣闘士として存命の機会を与えられました。」
 それでお金持ちのお嬢様は、その宮廷お抱えの剣士ヴェルダ様と、懇意の仲と、いうわけだ。

「ぶっ殺してください。」

 懇意の仲と、いうわけだ。
 その言葉に彼はもう一度上半身を起こした。まじまじと見つめた先ではいまだ冷たい石の上に正座して、その美しい目玉を見開いていた。その目を見たことがあると彼は思った。最後のとどめを指す瞬間に、まだ死にたくないともがく相手の目だ。
 先ほどまでの無視という沈黙と違う静寂に、聞こえなかったかとがもう一度重ねて言う。
「ぶっ殺してください。」
 言われなくても殺さなければこちらが殺されるのだとは言えなかった。
 勢いに押されるように、ただそうすることしかしらない機械のように、彼はゆっくり一度だけ頷いた。
 それに安心したように、先ほどまで静かに恐ろしい夜叉のような形相で目を見開いていた娘と同一人物だとは思えないほど穏やかに娘が微笑んだ。どこか清らかにも見える微笑で、だからこそどこかぞっとするほど悩ましかった。
 が立ち上がる。
 陽炎のように、薄い絹の着物が後について翻る。彼は呆然とそれを見送った。カチャリ、と鈍い音。ああこれで二回目だ一日が終わる―――まだ真夜中なのに。
 頑丈な鉄格子越しに、菩薩のような微笑を浮かべて娘がゆっくり背中を向ける。
「…まて、」
 思わずとっさに出した声が掠れた。なぜ呼び止めたかもわからなかった。
「そいつは。」
 半分振り返りかけたところで動きを止めて、が口端を吊り上げる。
「姉と家族のかたきです。」
 凄惨な微笑はそれでもやはり美しかった。
 彼は腰が抜けたようになってそのまましばらく床に座り込んだまま呆けていた。殺してくれ?なにを馬鹿な。殺すためにここにいる。そうしなくては生きていかれない。ころさなくては。
 彼はぽかんと開けたままの口を閉じた。
 言われなくても、だ。






20120730~31