第一夜

 やっぱり強い彼はその日を無事に“殺し”残った。
 当たり前のことのような気もしたし、やっとこれで夜を迎えられるとも思った。朝が来て昼を迎える度、彼は自分が“死に”なおしているような気がした。夜になって寝床に落ち着いてやっと、彼は自分がまだ生きていることにうすらぼんやりと気が付く。朝は戦いの前だからと特別に豪勢な食事が出た。夜は“殺し”残ったから、今日も闘技場を沸かせたから、と言う理由で豪勢で大量の食事が出た。毎晩これが最後の食事になるだろうかとは思わなかった。彼は感動すらしなかった。ただ目の前に出される飯を喰らう。それが生きるということだった。食うために殺しているのか、食うために生きているのかよくわからない。ただ食べることは好きだった。なにもわからずとも、食べることで何か、どこかがが満たされる気がしたからだ。

 その晩もやはり、ヒタヒタという足音とシャラララという銀の音、それらの後に、カチャリと“三度目”か“一度目”の音がした。
「…今日も勝ちましたね。」
 うっそりと上半身だけ起き上がった彼には困ったような微笑をした。昨晩(あるいは今朝?)去り際に見せたあの凄惨な笑みはどこにも見当たらない。真っ黒な二対の角でも生えているのではないかと思った夜叉の面影はどこにもなかった。果たしてあれは夢だったろうかと思うほど、目の前のは最初この牢に入ってきたときのように緊張して、しかしただやわらかい雰囲気をしていた。その右腕にはもう銀の輪がない。階上で小さく金属を遊ばせている音がするから多分それだろう。
「あなたは強いのね。」
「…弱いやつは死ぬ。」
 それだけが彼の知っている世の真理だった。
 そうね、と相槌を打つがどうしてだろうか、さみしげに見えた。彼は無表情のまま少し首を傾げた。それが“寂しい”顔だということを理解しきっていなかった。ただその奇妙に胸がチリリと焼けつくような違和感に首を傾げただけだった。
「あなたは強いのだからお願いにきたのだった。」
 忘れていたわとそう笑って、女は彼とは反対側の牢の壁に背をつけて座り込んだ。なにをしにきたのだろう。声に出すことなくじっと見つめると、女はこてんと首を傾げる。
「怪我、ない?」
 それがどういう意味の言葉か彼は知らない。
 怪我なら知っている。昔はしょっちゅうそれで死にかけた。今だって彼は十分幼い少年だったが、もっともっと幼い頃の話だ。ただ生まれつき彼は頑丈で、それから珍しいファナリスだったから、勝って動けないほどの怪我をしても、殺されたり死んでしまうことはなかった。薬もなく治療もない暗い地下の牢で、それでも勝ったからと差し出される大怪我を負った子供には豪華すぎる油の乗った食事、それとは逆に止まらない寒気に毛布が、ぬくもりが差し出されることはない。ながいながいまっくらな夜を、異国で子供はただ熱と痛みに喘ぎながら朦朧とした意識で耐えた。そうしてそれは不幸なことなのか、次の朝には子供の意識はしっかりとして、ただ傷の痛みだけが脊髄に響く。
 動けると判断されればやはり石の階段を昇らされ、明るいコロシアムの真ん中に立たされた。『手負いの獣、少年ファナリスの運命はいかに―――!!!』という劇的なアナウンス。かわいそう、という他愛ないお嬢さんたちのお手軽な同情の悲鳴。そんなガキ嬲り殺しちまえと言う声、対戦相手のああまだ俺は今日一日生きながらえそうだという余裕の目、俺はファナリスだって聞いたからその坊主に有り金全部賭けてんだ手負いだなんて聞いてねえぞ!さまざまな声は痛みが反響するばかりの耳には届かない。恐怖のためではない、傷からくる震えに剣の柄を取り落としそうになる。それでもその指は剣を決して離さなかった。そして離してしまったとしても彼は決して闘争を諦めなかった。屈しなかった。繋がれたままの腕と足で跳び、跳ね、蹴り、ぶつかり、そして牙で噛みついた。かみつくなどと言う生易しい表現ではない、喉元に喰らいつき、引き千切り、裂いた。卑怯だ剣奴なら剣奴らしく剣で戦え。飛ぶ野次は生命の駆け引きからは遠い。そんなことは知ったことではない。
 生きろ。
 たたかえ。
 それは誰の言葉だったろう。体の芯がその言葉を覚えている。
 その本能だけで彼は動いた。
 本当に動けない時は、せっかくのファナリスを殺しちゃ元が取れないとほんの一日休みをもらえた。それは他にはない特別なことだった。もちろん食事もなにもない。それでも一日あれば、彼は次の日には必ず“動くことは”できた。
 悲しいほどに頑丈だった。それを悲しいと思えないほど、彼は頑丈にできていた。
 もういつから剣奴をやっているのか覚えていない。ずいぶん経った気がするし、けれども自分の背はうっすらと記憶にある父のもののまだ半分にも満たない気がするから、そんなに経っていない気もする。
 とにかく彼は、怪我をすることが少なくなった。剣を手放して脚や腕や牙を使おうとすると、例え勝っても鞭打ちが待っていたので、彼は決して剣を手放さないことを覚えた。例え怪我をしても、明日には響かないものばかりだ。

「怪我、」
 と女が言って、いつの間に移動してきたのか、すぐ彼の前にしゃがんでいた。ぼうっとしていた。そのまま白い指先がついと伸ばされて、その体勢は少し昨晩引き倒されたときに似ていて彼はぎょっとする。思わずそのまま固まっていると、いい匂いのする指先がおでこを撫でて、それから髪の毛と額との際に触れた。
 優しい指先が傷口を撫でてすぐに離れた。“変な”香りが額に残っている。
 何をされたのかとじっと見つめる彼に、「はやく治るお薬です。」と女は困ったように笑った。






20120730~31