第二夜 その日の真夜中もやはりは来た。 重ねてつけられていた左手の金の輪が、ひとつになっている。もうけもうけと歌うように繰り返す階上の男の声が邪魔なように彼は思った。 「今日も勝ったのね。」 昨晩と同じようなことを、同じような調子では言った。おかしなことを言うと思った。勝たなければ彼はここにはいないし、と言葉を交わすこともない。負けるということは死ぬことだ。そして彼は、どんなにぼろぼろになっても負けたことだけはなかった。負けた方がどれだけマシであったのか。もはや自らの頑丈さに絶望する時期は遠の昔に過ぎ去った。彼は生ぬるい泥濘の底で、ただ息をして、そうして息をするのと同じように、同じ穴の獅子を殺した。殺し続ける限り、彼らは生きていられた。そしてそれを繰り返し、どうして生きているのかも忘れてしまった。 彼らのほとんどは、みな一様に底のない奈落のような、暗い目をしている。 そもそも剣奴には二種類しかない。望んでそうなったものと、そうでないもの。後者が大半を占めたが、数多い剣奴の中にその卑しい地位に甘んじることを自ら望んだ者も少なくはない。戦場以外で生きられぬ気狂いの人殺し、己の武勇を試したいと願う猛者か愚か者、腕試しの勇者、己を鍛えるため武に挑む者、自らの体を武を売ることを選んだ者。様々だ。“楽しく”剣闘士生活を送っているものも、確かに存在する。それはもちろん正規のルートで、自ら望んでこのコロシアムへ挑む者だけの話で、それ以外のほとんどは輸入された奴隷だった。 剣闘はこの帝国で一番の娯楽だった。奴隷でありながら、勝ち残る剣奴へ送られる声援は救国の英雄に等しい。多く殺した者が賞賛を手にする。そうだ、ここは戦場だ。 彼の暗い目玉を見つめながら、女はやはり、彼とは真向いの壁に背をつけて座り込む。その視線が、彼にはどうにも居心地が悪い。 どうして毎晩来るのだろうか。 彼は夜叉の気迫に呑まれてあの晩頷いた。そうでなくとも、殺さなければ殺されるのだ。わざわざ念を押すためだけに、夜毎美しい装飾を惜しげもなく差し出す女の気がしれない。 「今日は怪我は。」 彼は黙っている。 今日の相手に怪我などしようがなかったのだ。最初から震えて、脅えていた。剣を持つ手がまるで素人で、腰なんてほとんど引けていた。臆病者、のろま!それよりもっとひどい野次が飛ぶ中、ファナリスの少年は弱った獲物を前にしたおおきな獣の風情でただ立っていた。乾いた風が吹く。おびえたような、もはやなんと言っているかもわからない喚き声を上げて切りかかってくる男の一太刀を―――交わしてついでに絶命させることなど容易い。 それが慈悲だと、どこかで彼は知っていた。 剣を振りかぶったまま駆けてくる血走った男の目が、それでもどこかで、ああこれで終わる、と一種の期待にさざめいていた。 彼はその一閃とはとても言い切れぬお粗末な一撃を“間一髪”で避けた。重たい剣を振り下ろすより先に、幕切れが訪れるだろうと信じていた男は、しばらくその場に剣を振り下ろした姿勢のままかたまっていた。まるで何故まだ生きているのかが理解できない、と言う風に。そうして自らが“生きている”ことに男は息を荒くして―――鬼のような形相で彼を振り返った。彼は淡々とその眼差しを受け止めただけだった。 早く片付け過ぎると鞭で打たれる。 観客は猛者たちの一対一の真剣勝負を心待ちにしていたし、同時に強者に弱者がいたぶられながらじわじわと傷つけられて哀れに死んでいく、その悲劇も期待していたのだ。 逃げてばかりは鞭で打たれる。すぐに終わらせては鞭で打たれる。足を使ったら鞭で打たれる。爪も、牙も。コロシアムを“殺し”残るベテランたちは知っている。無傷で終わっても鞭で打たれては明日死んでしまうこと。下手をすれば今日食う飯を失うこと。彼らは“魅せ”方を熟知していた。自分たちそれぞれの戦い方やキャラクターを理解していた。 そしてかなしいかな、彼も、幼くしてベテランと呼ばれる部類だった。 (―――せめて太陽が、) 中天に昇るまでは。 続けなくてはならない。少年の目にもはや慈悲の欠片も、感情の欠片もない。彼は哀れな対戦者をじっと見つめている。地獄は同じ苦しみを味わっているはずのものの手で延長された。その沈黙の意味を理解し、絶望した男が再び意味のない悲鳴を上げて斬りかかってくる。一分一秒でも、はやくころせ、と。 「本当に?痛いところはありませんか?」 ふいにまた、目の前に白い手が伸びてきて、彼は思わずそれを払いのけた。驚いたようにが目を見開いていたが、「そう。」と呟くと目元を緩めてふわりとわらった。なんだか一瞬斬られたひとのような顔をしたのは、きっと彼の気のせいだと思った。 |