第三夜 どうしたって彼は強い。生き残る遺伝子を持っている。 他を殺し、残る力を持っている。 それがどういうことなのか、彼はよく知らない。ただ自分が死ぬのは恐ろしいことだと彼は本能的に知っていた。その恐怖を他人に与えることについては、特になんとも思われない。自分が相手にその恐怖を、与えていることすら知らないのかもしれない。だって相手は敵だからだ。殺さなければ殺される。時折彼は、自分が死ぬなんて思いもしない時があった。死などいうものは自分とは無縁で、常に彼を取り巻いてはいたけれど彼のことだけは避けて通るものだという気がした。 「今日も勝ちましたね。」 「……見た?」 珍しい彼の問いかけに、ごめんなさい、と彼女は首を振った。左の手首も、もうなにも嵌めていない。動く度に鳴るのは足首を彩る銀と金の輪、それから星を連ねた耳飾りだけだった。幾重にも重ねられた薄い絹布は、今日もひらひらと女について揺らめく。 「あまり…剣闘というものを、見たことが……、」 それからは少し黙ってうつむいた。彼も黙っていた。 「いえ、その…怖くて。」 その返事はなんとなく当然のことのようにも思えた。 お屋敷の奥、醜いからも痛いからも卑しいからもすべて遠ざけられてただしあわせに育ったお金持ちで大臣の娘の。それが剣奴を怖がるのは当然のように思える。 が首を傾げると、美しい髪がその後についてさらさらと肩からこぼれた。の着ている絹の衣に似ていると無感動に彼は女と髪と衣服に共通点を見出す。だからと言ってどうということもなく、ただ似ていると思っただけ。 彼は黙っているのにはまだ勝手にしゃべっている。 「剣闘士がこわいのではないのです。」 時々このという女は彼の思考を読むらしかった。 「どうしてあなたのような子供や、訳も分からず連れてこられたり売られてきた奴隷や、お金欲しさに自らを売った人や、罪人同士や―――あるいは望んで、ここに来た者たち、彼らが殺し合うのを眺めて、それに歓声を送って、手を叩いて、喜んで、歌って、踊って、飲んで、騒いで―――楽しむことができるのでしょう?」 彼が反応したのは自らを“子供”と称されたところだけだった。耳が勝手に捉えて少し不機嫌に眉が寄る。どんな大人も彼には敵いやしなかった。だからこそ彼はこうしてちゃんと今日も“殺し”残っているのに、子供、だぁって。 こんなおそろしいこどもがあるものか。これはひとのこではない。けだもののこだ。 それは誰の言だったろうか。ああけれど、それこそが誇りだ。人とは違う、彼はファナリスの戦士。 「私にはそうやって、楽しんでいるみながおそろしい。」 憂う横顔は慈悲深げだがただそれだけだ。 そんなこと知ったこっちゃなかった。そういったことを悩めるのは、あの擂鉢の一番底、闘いの場の外の階段に座ってそれを眺めたり、その建物の外にいる人間だからこそできることだった。娯楽のために、自分たちが殺し殺されるのを眺められていることなど誰より知っている。しかしそんなことは、一切彼らには関係のないことでもあった。一度あの窯の底に落とされてしまえば―――大人も子供も、男も女も、老いも若いも、善も悪も、なにひとつ関係なくなる。あるのは純粋な力の差、生か死かだ。これほどわかりやすいルールに支配された世界はない。剣奴以外の“挑戦者”は、“殺し”残り続ければ栄光と名誉とを手にコロシアムを出ることができた。しかし奴隷は違う。奴隷は死ぬまで、闘い続ける。闘わないことは死だ。殺すことこそが生だった。 だからそれがこわいというの言うことが、彼には理解しきれない。 恐ろしいのは死、そればかり。―――ほんとうにそうだろうか?彼はふと考えも見なかったことを考えた、ような気がする。もうずいぶんと、おそろしいと思ったことなどない気がする―――。そもそも考え事に向かない彼の頭は、すぐさま子ども扱いされたことへの小さな不満に行き当たる。 ただただ子供扱いされたことだけに密かに腹がたったので黙っていた。 |