第四夜

 今日は右の足首で涼やかな音を立てていた銀の輪がなくなっていた。一体ここの見張りはここ五日でどれだけ“小金”を儲けたのだろう。ひょっとしたら一生分の給金よりも高いんじゃないかしらと思う。

「今日も勝ちましたねぇ。」
 のんびりとは言う。お土産です、と差し出されたものを彼は見たことがなくて、スン、と鼻を鳴らすと甘いにおいがした。食べ物だろう。チラと伺うと微笑と共に差し出されたので両手で掴んでそのまますぐから離れた。口の中に放り込むとびっくりするほど、あまい。
 切れ長の目をまんまるにして、今口の中に入れたものが信じられない、というような顔をしているファナリスの少年に美しい女が肩を揺らしてわらう。
「おいしいですか。」
「…。」
 美味しいから彼は黙っていた。小さく頷くと「よかった。」と穏やかな声。そう笑うの膝に、小さな布に包まれてまだそのまあるい菓子が乗っていたのでじっと眺めると、「どうぞ。」と微笑と共に差し出された。返事もせずにひったくるとそのまま口の中に収める。やっぱり返してと言われたら困ると思ったのだ。
「リスみたい。」
 とりませんよ、と年長者ぶって(実際年長者なのだが)肩を揺らしながら、もう一度は「おいしい?」と尋ねる。もう一度音はなくそれにこくりと頷くと、嬉しそうにはにこにことした。
「もっと持ってこれたらよかったのだけれど。」
 まったくだ。しかし彼は黙っていた。こんなに甘いお菓子を食べたのは初めてだった。舌がとろける。
「そんなに気に入ったならまた包みましょう…弟もこれが好きで。」
 言ってから自分でハッとして、それからは後悔したようだった。後悔するくらいなら言わなければいいのにと彼は思ったけれどやはり黙っていた。もともと彼は自分が発した言葉にどうこう思えるほど言葉を発さない。話す相手もいなかった。この女が来てから一週間も経っていないが、そのわずかな日数で彼の一年分くらいの会話量を消費している。
 が現れてしばらく経つがようやっと、その菓子の味に、彼はその来訪が無駄ではないと感じられた。昼間は戦いでクタクタで、たらふく食べて、寝て、また明日に備える。それが単調な彼の日々の繰り返し。食べて、寝て、闘って(殺し)、食べて、寝て…。それだけで事足りる。睡眠は唯一の休息の時。だのにこの女が来てからよくわからないおしゃべりだのなんだので彼の貴重な睡眠時間は削られている。菓子のひとつでもなければやってられないってもんだ。
 口いっぱいに頬張ったままの菓子を嚥下しながら、彼は特にその菓子の美味しさ以外なにも考えていない。の方はやはり、彼から離れた壁際に座って、少し目を伏せている。
 彼はもともとこの牢の静けさに馴れているからなんとも思わないが、にはこの沈黙がいたたまれないものと映っているのかもしれない。膝の上で握りしめたままの両手を、はじっと見ている。
「弟が、」
 手、震えてる。
 ゴクリとすべて呑み込み終わって、彼は少しあっけにとられてを見た。またあの恐ろしい夜叉が来るのかと思ったがの面に変化はなく、やはりどこか斬られた人間がその傷に耐えて剣を振るおうとするときに似た面差しをしている。
「…いたんです。」
 ふうん、ともそう、とも彼は言わなかった。特になんとも思わなかったからだ。そもそも相槌を打つと言う概念が、彼にあるかが怪しい。呑み込み終わった菓子の甘さが、まだ頬の内側に残っていて、彼はそれを味わうのに忙しかった。「生きていたら、」と言うの両手が、先ほどよりもずっとカタカタと震えていて、やはりどこか怪我でもしたのだろうかと彼は思う。腱に関わるほどの大けがをすると、剣を握りたくてもああいう風に指が震えて、とてもではないが握っていられなくなるのだ。
「あなたと同じくらいかしら。」
 かすかにが口の端だけで笑って、しかしちっとも、楽しくはなさそうだ。
 青褪めた横顔をとは反対側の壁にもたれて眺めながら、彼は首を傾げる。死んだ弟と目の前の剣奴が同じくらいの年をしている。だから?わざわざ口に出すほどの疑問ではなかったからやはり彼は黙っている。この女は、ころされたおとうととおなじくらいのとしのけんどに、ころしたやつをころしてとたのんだのでふるえているのか?
 彼は考えるのが得手ではない。
 口の中に残っていた菓子の味は、とっくに消えてしまっていた。






20120730~0801