この男―――強い。
 彼は眉間の間に強く力を込めて足を踏みとどまった。重たい一撃。宮廷で誉れ高い剣士だったというヴェルダ。大臣の長女と恋仲だったというヴェルダ。の姉と恋仲だったヴェルダ。美しいの姉、それもきっと美しかったろう。その肩を抱き、その腰を抱いた手で、剣を取って、美しい恋人を斬りその家族を斬った。
 何故は生きている?
 一瞬彼の目蓋の裏に映し出された映像の、の姉は、そのままの顔をしていた。
 どうして、なぜ?
 思考する暇などない。重い剣撃を受け止める体は気を抜けば後ろへ吹き飛ばされそうだ。強い。―――強い。もう日は中天に昇った。舞台裏では今日の出番はないかもなあなどと次の剣奴と見張りとが軽口を交わし合っている。もういったいどれだけ打ち込み、打ち返されただろう?いいや、実際には受けてばかりだ。そしてさらに言うなら受け流しきれてもいない。しかもこの男、戦いを長引かせようとしている。
 すでに一度、彼は死んだかと思った。
 剣撃に耐えきれず後ろへよろめいたとき脇が上に開いた。腹部ががら空きだ。そこにてっきり一閃が投じられてすべてが終了すると思ったが剣の柄が、重く、鋭く、容赦なく叩き込まれただけだった。あばら、いったな。頭から垂れてきた血を口端に感じる。ちのあじがする。
 左腕の感覚がない。もう右手だけで、彼は剣を握っている。
 ヴェルダは強い。ゾッとするほど。男はまるで機械のように、冷たい眼差しで剣を振り続ける。しかしその眼差しの中に、熱狂的な暗い炎が見える。殺戮を求めている。もう壊れてるんだとそう思う。けれどこれと自分の、どこが違う?生きるためにいったいこれまで、生きるため、と考えることを止め、機械のようになってどれだけの命を屠った?それは生きるために?ほんとうに?生きることに意味があったのはいつだ?
 ころすためにいきてい
「マスルール!!」
 わあわあと騒がしい歓声と野次との中で、どうしてかその声だけ、闇を貫いて飛ぶ白烏のように彼の耳に届いた。
 初めてだった。
 なまえ、よんだ。
 一瞬彼の目が、年相応の幼い子供のように見開かれた。
「負けないで!!!」
 それは復讐のため。
 赤い前髪の下から同じ色をした目が声の主を捉えた。その目元は落ち込んで暗く、死線を幾度となく潜り抜けてきたその目は、少年のものにしては悲しく鋭すぎた。歓声、野次、ころせ、そこだ、いまだ、やっちまえ!ころせ、ころせ!ころせ!
 剣を握った彼の指先が一瞬ヒクリと痙攣する。チラと熱狂する観衆の隙間に、その人を見た気がした。初めて昼日中の光の下で見たその人は、夜の中でみるよりずっと、白く輝いている。ぎゅっと胸の前で握られた拳。見開かれた目。それはいつかの夜叉の目では決してなかった。
 一瞬だ。
 錯覚か?
 殺せと叫ぶだろうか。その口が。憎い仇を殺して、と
「死なないでマスルール!」
 (ふくしゅうのため、?)
 それでも一瞬、その言葉は彼の耳に熱かったのだ。泣いているようにも聞こえた。ごめんなさい、と昨晩の静かな声音が不意に空っぽになった頭に鐘のように鳴り渡った。獣が叫び、駆ける。早い。手には爪よりも鋭い剣。瞳は確かに燃える獅子の目だ。
 光を失ってもなお。耳はその声を聞いた。
 速い。まるで風だ。






20120730~0801