第八夜 「…今日も勝ちましたね。」 いつものその言葉に彼はゆっくりと上体を起こした。 まったく久しぶりに彼はずいぶんたくさん、しかもひどい怪我をした。この少年剣闘士はその血筋故に人気だったし、今日の試合はそれは白熱した素晴らしいものだったので、なんと破格の、丸一日の休みがもらえた。死刑囚を見事始末した首狩りマスルール。不名誉な渾名までいただけそうだ。ああしかしそんなこと、彼になんの関係がある?明日休めば明後日はまた戦いだ。それまでに傷口を塞ぎ、英気を養い、再び戦わねばならない。闘わねばならない?違う。それしか知らない。それ以外知らないのだ。それ以外があることも、遠い昔、あったことも忘れてしまった。 の手が、その遠い昔の優しい母親をなぞるように、やさしく傷口を拭ってあの“変な”匂いのする軟膏を塗りこめている。ふいに“母”というものを連想してしまったことに彼は顔をしかめた。 ころすためにいきているのに。 「…、」 彼はゆっくりと口を開いた。 「ここから出すと言った。」 応じた覚えはなかったが、望みは叶えた。この年上の娘の、随分生真面目なこと、彼はここ一週間ですっかり把握していた。気圧されて頷いた、それだけで取引きは成ったと、思っているに違いない。 「待っててください。」 今すぐには無理ですが、とすまなそうに眉をしかめるに、どう反応すればいいものか。 もちろん彼は、嫌味のような、戯れのようなつもりでそれを口に出したに過ぎない。端から期待なんぞしていないのだ。殺したのはに頼まれたからじゃない。毎日終わらない繰り返しを今日も繰り返しただけの話しだ。明日も、明後日も、同じことをする。 おんなじことだ、きのうも、きょうも、明日も。 きっと殺すだろう。この外れない枷と鎖がある限り。彼は殺す。それしか知らないから。 だからのせいじゃない。 のせいじゃない。 「…。」 言葉が不得手なことを怨んだのは生まれて初めてだったように思う。怪我のせいで動くことままならないような腕を、少しあげようとした。枷のせいで右手を上げようとすると左手までついてくるのが億劫だ。それでも少し、この年上の女の人の目が泣きだしそうに見えたから、その目の下に触れたいと思ったのだ。 「次の園遊会で、見事、皇太子様のハートをガッシリ鷲掴みしてみせます!」 は両手をガッシリ握って、どこか天井を見ながらファイティングポーズをとった。上がりかけた彼の両手がガツーン!と枷の重みに負けたように石畳の上に落っこちた。ものすごく久しぶりに、彼は心底イラッとした。こういう風に感情が動くことは久し振りで、ともすればこんな鎖千切ってしまえそうな錯覚すらするほどにはイラッとした。 「……で?」 「し、信じていませんね!布石は完璧です。園遊会の片隅で、哀れ、家族を失った美しい幼馴染とばったり再会するファリザード皇子!ああ、わたくしはいったい、これからどなたにおすがりして生きてゆけばよいのでしょう…ここで涙!そのままよよよとしな垂れかかって、腕にむぎゅっとしたあとで、ああすみません殿下わたくしったらつい…ああ、殿下、お懐かしゅうございますね、わたくしたち、一緒に手を取り合って遊んだ幼い日々が…と、ここで涙に濡れた頬を上げてけなげに笑顔です!完璧です!そうシャラーラが申しておりました!」 「……誰。」 美しいって自分で言ったな、むぎゅってなにを腕にむぎゅっとするつもりだ、なにその馬鹿を体現したような計画。つっこむにはどれも文字数が多すぎて、彼の口からは短くて済む、別に聞かなくてもいいような呟きだけがなんとなく呆れた調子で漏れた。 「わたくしの乳母です。」 にっこり、そうあくまでにっこりとは笑った。昼間泣きそうな顔で死ぬなと叫んだことにはちっとも触れない。彼も黙っている。というより話すことに馴れていない。生来口数が少ないのだ。どう言ったらいいかもわからない。だからそのなんの確証もないへんてこなの未来予想を眉を潜めて心底ダルイめんどくさいという顔を隠さずにそれでも聞いている。 「そうしたら、わたくしは皇太子妃となって、婚儀のその祝いの贈り物に、マスルールをねだります。」 「…。」 「それが許されたら、あなたは自由の身。故郷に―――カタルゴにお帰りなさい。」 久しく聞かなかった故郷の正式な名称だ。ゆったりと優しい口調。まるでそうなるのが決まった未来のように、この人は言うのだ。もう体を飾る輪はひとつも持たないこの人は。 「……無理。」 「いいえ!」 「…いや、無理だろ普通に。」 「いいえ!ってマスルール普通に喋れるじゃありませんか!」 「…、」 「なんですかそのかわいそうなものを見る目は!」 「……無理。」 「………だったら。」 その呆れたような、変に年長者じみた問いかけに、はやはり、意を決するように口を結び、まっすぐに彼を見た。長い睫がまっすぐ彼を指すように伸びてた。 「…その時は、」 この人は美しい。 「わたくしぜんぶを売りとばしてあなたを買います。」 もう金持ちでも大臣の娘でもお嬢様でもないのに。もう美しいだけの、内側から光り輝くだけの人だ。細い腕の、頼りない指先の、やわらかい乳房の、強くもなく金銀も持たない、身一つのただの女。 そうだった、これはばかだっだ。 薄くマスルールは口の端だけでわらった。 もちろんの言うとんでもない未来の予定だなんて欠片も信じてはいなかったし、そもそもこの女に自分をここから出せるなどとは最初から微塵も思っていない。ここから自分を逃れさせることができるのは“死”それだけであり、しかし彼が彼である限り―――死は決して彼を捕まえない。いつからとも知れぬ幼い時からここにいて―――きっといつまでもここにいる。いつまでも生きている。いつまでも殺しながら。息をするように、眠れば目覚めるように、その螺旋の中にあることは彼に極当たり前のことだった。抜け出せるとすら思った試しもない。しかしその終わることのない日常の繰り返しに疲れ、倦み果てて、もはや微かな希望の匂いすらその鼻は感じず、その光などとっくの昔に盲いたこの目には映らない。それでも彼はその時笑い出したいような気がしたのだ。声を上げて。そんな風に笑ったことなど生まれてこの方覚えがない。そういう動作をするのは、闘技場の擂鉢の外で“観戦”する者たちばかり。それでもどうしてか、真夜中に彼は愉快な心地がしたのだ。 その頃、不確定かつなんとも勝手なの未来予想図などよりよほど頼りになる最強の未来の王様が、大海原の上で、次の冒険の便りに心躍らせていたことをまだ二人は知らない。 |