コーヒーが入りました、と気恥ずかしげに、はにかんで少年が言う。ありがとうと努めて穏やかに返しながら、薄情な私はいったい彼はいつ帰るのだろうと考えていた。


 

 本来自分の気配が充満しているだけのはずの狭いワン・エル・ディー・ケーに、他人が、しかも子供がいると言うのは落ち着かない。しかもその子供が、キッチンで器用に火を使い湯を沸かし、コーヒーを淹れているのだからなおさらだ。もう子供と言う歳でもないことは百も承知だが、では大人かと問われれば返事はノーだろう。さん、砂糖は、ミルクは、と甲斐甲斐しく世話を焼こうとする彼に私は苦笑する。うまく微笑のかたちになってくれているだろうか。鏡もなしに確認はできないが、自分ではどうも、頬が引き攣っただけのような表情になっている気がしてならない。この狭い部屋に砂糖はあるがミルクはないということ、そして私はそのどちらも必要がないことの二点を伝えると、彼はきょとりと丸い目を開いた。そうするとやはり、子供だという印象が前面に顕れてくる。
 そうですか、いらないんですね、と純粋しきりに何度も頷いているが、こちらはなんともいたたまれない。やめてくれ、気を使ったつもりで、コーヒーにミルクと砂糖を入れときましたから、なんて台詞まちがってもよしてくれ。コーヒーにそんなもの入れるなんて正気の沙汰じゃないし、私を"そういう"女だと思っているのならそれは大層な思い違いだ。
 ともすれば頭を掻き毟ってそう喚きたいのだが、そうもいかないので私は立ち上がり、砂糖の在処を教えてやる。喚き出すかわりに、今日この子供を巣穴へ招いた。
 一杯、二杯、と茶さじに白い砂を掬ってカップの中の熱い液体に溶かし込む様子をなんとはなしに横目で眺めながらパソコンの画面に目を移した。一口自分用の白いマグに口をつけると、コーヒーの芳醇と言って差し支えない香りがする。どうも私は、いつもこの香を呑んでいるような気がしてならない。この黒い香りに、砂糖の甘さやミルクの乳臭い匂いが混じることを考えるだけで残念だ。彼はなかなか、コーヒーを淹れる才があるらしい。それだけにせっかくのそれに砂糖を、しかもここにミルクがあればきっとそれも投入したのだろうことを思うと、もったいないように思う。もちろん私の勝手な主観であるから、口には出さない。
「…見ていいですか。」
 と彼はいちいち確認した。さっきまでだって、コーヒーを淹れるために席を立つまでは、そうして見ていたくせに。そうとは言わずに少し喉の奥で笑うような音を立ててから、「どうぞ。」と促す。すると彼は、器用に長い脚を折りたたんで私の隣に正座をする。そうやってじっと、ただエアコンが低く唸るばかりの部屋で、人がキーボードを叩く様子を飽きもせずに眺めているのだが、はて、彼はいつ帰るのだろうか。
 子供―――うら若き青少年とはいえ、立派に社会に出て働く彼は、職場を共にする、大きな目で見るならば同僚ということになる。畑はずいぶんと異なったが接点はあった。私の母国が、彼の熱心な崇拝を集めていたのも影響したろう。不安そうに人見知りしながらも素直に懐いてくる"こども"はずいぶんかわいかった。犬猫が懐く様子よりも、もう少し警戒心の強い動物のようだった。礼儀正しく優しい幼獣だ。鹿かもしれないなと思う。おずおずと距離を詰めてくる様子は、あいらしい。派手な舞台は似合わないんですと自信なさげに肩を落とすさまもいじらしければ、今日はうまく立ち回れたと控えめに報告する目の輝きなどあいくるしいと言ってもいいほど。
 その図は貉か狐狸かが世を知らぬ小鹿をうまく手懐けたように見えるだろうか、それとも無邪気な小鹿が戯れ懐いてついにはそれらを陥落させたように見える?
 普段休日は家で何をして過ごしているのか―――。
 このような状況に陥ったそもそもの切欠は、確か取り留めもない世間話であったと思う。
「仕事をしているよ。」
 こともなく私はそう答えた。
「お休みの日にですか?」
 心底驚いた、と彼は目を丸くする。
「悲しい社畜の性でねえ。」
「えええ?」
 おかしそうに、しかしそんなに仕事が大変なのかと労わるように目を白黒させるので、からかうのもかわいそうになる。
「嘘うそ。仕事というか、趣味だね。ずうっとプログラムを作っている…目が離せなくてね。四六時中何かしら手間をかけてやらなきゃならない。」
 仕事の話をなると熱も入る。彼はその、SF小説染みた私のプログラムにいたく関心を持ったらしい。訪ねてもいいかと尋ねる彼の八の字に下がった眉を見、「邪魔はしないようにしますから。」とさらに眦と語尾まで下げられては白旗を振るしかなかったのだ。なにせ女子供にやさしいと、もっぱら評判の私であるから。
 そうして貴重な休みが被ったその日に、彼はやってきた。
 宣誓をたがえず、至極大人しい。上に甲斐甲斐しく、コーヒーまで淹れてくれる。できた子供であるが、しかしながら、やはり普段めったに他人を招き入れない縄張りに他人がいるのは落ち着かない。いつ帰るの、と聞くには、私は空気を読み過ぎる。
 落ち着かなさを鎮めるために、ついには煙草に手が伸びた。コーヒーはそもそも私にとって鎮静剤のような作用を齎すものだが、それでもなお足りなかったところを見るとこの劇薬に頼るしかない。カチリとライターを鳴らすと空気が切り替わる気がする。
「…たばこ、」
 ぽかんと口を開けて、小さな声で彼が言った言葉が、リアリティを持って私の頭のなかで像を結ばなかった。なんだって?だ、ば、こ。ああ、煙草。彼の口からでたその言葉は、随分とまろく、どこか空想の世界の響き染みている。私やその仲間が使う、siger(煙草)という響きとはまるで違った。彼はまるで、そんなものが実在するとは思わなかったとでも言うように、物語の中の恐ろしい兵器でも見たかのように、まじまじと私が口に咥えたなんということはない一本の煙草を見つめている。
「ん、嫌いだった?」
 ごめんね、と消そうとすると、いいえ、と青白く透き通った顔が俯いて、しかし首を横に振った。いいえ。もみ消そうと動いた手を押し留めるように、彼の両手が私の腕に、触れないほどにそっと、押し当てられている。ふむとそれを眺め下ろして、私はふたたび、煙草を口に咥え直した。青少年といる時はなるべく喫煙を自粛するよう心掛けているから、そう言えば彼の目の前で煙を吸ったことはなかったかもしれない。しかし今日、彼はずいぶん長いことこの部屋に居座ったので、ニコチン中毒とまではいかないが口寂しく口いやしい私には少しばかりその日頃の心がけは苦痛に感じられた。別段外でなら、一日二日それを嗜まずともなんということはないが、自らの部屋、ごく寛いだ己の城で、自らの欲求に素直に従わないことは難しい。そうしてついに禁を破っての一服であったから、正直消すには惜しかったのだ。
 では遠慮なく、と深く煙を吸い込む様を、彼はじっとまるで奇妙なものを見るような目で見つめている。
「…欲しいの?」
 チラと横目で見ると彼は慌てて首をまた横に振った。他人の喫煙風景など、真横で正座しながら眺めるようなものではないと思うのだが。酒だとか煙草だとか、そういった一定の齢まで禁じられた風俗に、興味なり嫌悪なりを抱いてしかるべき年齢だろうと思う。けれども彼の眼差しには、その年頃の青少年独特の一種憧れにも似たそれらへの期待も、それら自らを害する"大人"の何とも滑稽な風習を忌憚する素振りも見受けられず、ただどこか途方に暮れたような悲壮ともとれる静かな真剣な集中だけが感じられた。こういう眼をどこかで見たことがあるなと思った。どこで見たろう。
「…吸われるんですね、」
 彼の膝の上で握られた拳を見た。握りしめる、という表現まで行かないが、自然な力の入り具合ではないなと思う。
 私がこういった退廃的な嗜みを持っているとはこの青年は想像だにしなかったに違いない。どうだね、殺風景で家具もほとんどない部屋。機械ばかり愛でて煙草を呑み、コーヒーは専らブラック、暇を持て余したつまらない大人です。
「ああ…。健康な肺ってやつはね、本当にきれいな、濡れた牡丹のような…紅色をしているんだよね。それを損なって、その美しい紅色を黒く硬化させてまで、呼吸を、血の巡りを滞らせ、命を削ってまで、それこそ命がけで嗜むほど美味しいものでは決してないのだけれど。」
 ふう、と煙と一緒にこの胸の内に溜まる靄を吐き出したいのだというにはセンチメンタルが過ぎる。ただの手慰み。けれども常用性がある。臭い煙がなるべく少年にかからないよう、窓に向かって煙を吐き出す。
「なんでかなあ…退屈なんだね。暇潰し…口紛らわし、とでもいうのかな。これほど意味のないことってないだろ、酔えるわけでもなし。だからこそいつでも吸えるからね、つい、日常の暇暇にこうして嗜んでしまう。そうするとこれは毒だから、吸っていないと集中が鈍ったりする気がしてくるのね。(実際血管が収縮するそうだよ、と私は言ったが彼が理解できているかは怪しい。)そこまで行くと重度の中毒だね。まあ、私はそこまで吸わないのだけど…でもやはりたまにこれに頼んで仕事をする時はあるくらいには覚えてしまった。」
 長く特に役にも立たない説明の後で、そうですか、とだけ彼は呟いた。
「現場でも吸われているところを見たことがなくて…すこし、びっくりしました。」
 あどけないきみ。素直にこういう時、君をかわいらしいと思う。「そりゃあ昨今煙草を嗜むなんておおっぴらにはいえないもの!」殊更におどけて、幸い私はそこまで中毒していないのだしと言うと、ええ、と力ないような応答がある。
「普段家で、一人の時しか吸わないんだよ。」
 特に出来る限り子供の前では吸わないようにしている、という言葉は言おうとしてやめておいた。隣で正座している彼は、私の頭の中でまごうことなく子供のカテゴリにいる人だからだ。大人の扱いをして、この子供の前で煙草を咥えたわけではなかった。
「ええ。」
「悪いことは隠れてやらなくてはね、」
「ええ?」
「ふふ、これが悪い大人だから、決して真似してはいけない。」
 だからいっぽんだけ許しておくれね、と口端を持ち上げると、ようやく彼はわらったのだった。噫とふいに思い当たる。巣から落っこちた燕の子を、どうすることもできずにしゃがんで見つめていた時の弟の顔だ、これは。憐れみよりも、自らの無力よりも、目の前で目に見える形で損なわれてゆく小さな生命を前になす術もない、そこから感じ取る死の気配―――その名を知らずとも感じる、死の恐怖、不安、逃れられない、その不安だ、それに晒されながらその名を知らない子供の顔をしているのだ、と思う。ふいにその美しいアメジストの瞳に向かって、この死のかおりがする煙を吹きつけたい様な気がし―――私は静かに煙草を揉み消した。
 この青年はきよらかにうつくしすぎるように思えた。
 そう思うのも贔屓目なのかもしれない。しかしそれでも私は、「早く帰りなさいイワン。」うつくしい鹿の子供。もうじき立派にその角が生え揃っても、美しくかなしく、青褪めて透き通ったままだろう。すこやかな君、狐狸の巣へようこそ。でももうお帰りよ。
 別段自分を蔑むわけでも、汚らしく思うこともない。これは私の生きてきた記録、その時間の積み重ねの上に作られた私。私は私に満足している。君よりよほど、自分に自信と信頼とを持っている。君に私は似合わないとか、君は私にきれいすぎるとか、つまりそういうことではないのだ。そういううつくしい感情で、私は君の眼差しにこもる理想を打ち砕きたいのではない。どちらかと言えば呆れているのだ。種族が違うよ、きみ。それは単純で、しかし大切なことだ。肌の色、髪の色、生まれた土地―――そういうことを言っているのではない、わかるね?魚は水を上がっては住めないし、獅子は草を食べては生きられない。洞窟に生きる蝙蝠と、光の下羽ばたく鴎は決して見える世界を共有できない。北極のシロクマと熱帯のヒヒが、果たして肩を並べて心の底からどこで憩えるだろうか?ああ!けれど、そこに、愛が、あれば?"がまんできる"と君は言うかい。君の愛は、黙って耐え忍ぶこと?それを与えられる相手が、どんなに居心地の悪い思いをするか知りもしない君。愛で腹は満たされない。心が満たされる?だがそれが何になる。愛の他に、心を満たす美しいものはこの世に五万と転がっていて、私は愛が一つではないことを知っている。そう、そういうことだよ。どうしてこんな単純なこと、気が付かないのかな。
 単純なこと。
 祝福された名前を持つ君に、この穴はあんまり湿って暗すぎるのだ。





20120822