Here is the sometime flower garden. It's just waiting for you. ここはいつかのおはなばたけ。ただ君をまつ。 |
01. |
(かみさまは後悔して、それから懺悔をした。) |
試験管の中で産まれたそのけだものは、いつの頃からとははっきりとはわかりませんが、自分が一際異能であることに気づいていました。緑色の水の満ちたガラスの水槽の中から、彼が念じるだけで外のものがひとりでに動くことは常でした。他の獣たちも、彼とよく似た力を有してはおりましたが、彼に比べれば微弱な、頼りないものでしたのです。彼は他にも、幾つか気づいたことがありました。彼と同じ種族だろう水槽の中の彼らと違い、そのけだものの目つきは鋭く、触れれば切れるのではないかと白衣の人間たちには思われていること。そしてその目つきと、思考と、異能のために、彼がどの"被検体"よりも手荒に、頻繁に研究に使われることでした。そもそも他の被検体たちは脆弱で、次々に"いなく"なってしまっていました。 けだものは特別に『ミュウ・ツー』と呼ばれていました。彼はその意味を、よく知りません。 ひとりの子供が研究所へやってきたのはその頃でした。 美しい金の髪がサラサラと肩から肩甲骨の下あたりまで、ゆるゆると波打ち、もつれながら春雨のように降っていました。子供と言ってもスラリと伸びた手足は、ほとんどその時期を脱していましたが、その性別ばかりがひどく曖昧なのでした。 女とも男ともつかぬ美しく清らかな形を子供はしていました。平坦な胸に細い腰、長い腕と足、華奢な体つきにまっすぐな肩。筋の浮いた首、骨ばった指先に桜貝の爪。男の、女の、うつくしいところを寄り集めてきたような人間でした。おかげで性というものを持たないように見えましたが、それでもやはり、それは天使にも似て、美しかったのです。 なにも外見だけではありません。その頭脳は完璧なまでに美しい構造を持っていました。 俗な言葉で言えば、その人は"天才"と呼ばれる人種だったのです。青年期に達しようかと言うその齢で、その彼だか彼女だかはこの研究所へ客員として招かれたのです。 その子供が来てから、けだものの呼吸がまず第一に楽になりました。身体に不思議な感じのする管を埋め込まれはしましたが、格段と呼吸をすることが苦ではなくなり、彼は眠っている時間が減りました。減った時間で彼はガラスの外をより観察し、あらゆる物事を無意識に貪欲に学びました。 "てんさい"の"こども"は、その様子を少し首をかしげて気づいているのかいないのか、じっと興味深げに見つめていました。 コツリコツリと、その彼だか彼女だかは、けだものの棲むガラスを細い指先でときおり叩きます。最初は無視しました。もう一度コツリとされたとき、けだものはうざったそうにその目を半分開けました。金の髪をした世にも稀有な人が美しく微笑んでいましたので(しかしそれは慈悲深いような類の微笑ではありません。)(迷子の子供が、親を見るときのような、迷子の親が、その子を見るような)(けだものが今までに見たことのない眼差しでした。)、彼はぱちくりと目を開き、次の瞬間にはまた、興味ない、と示すために目を瞑りました。 しばらく日が経って、また、コツリコツリと小さな音。 うっそりとけだものが目を開けますと、やはりあの人でした。彼の目が開いたことを認めるとその人はまた、コツリコツリとやります。暇なのでしょうか。 お前に付き合う暇はないのだ。 そういう意志を示すつもりで、けだものは尻尾でガラスの縁をゴツリと叩きました。僅か触れただけなのにひどい音がして、警報が鳴りました。目の前の人は無邪気にけだものが応えたことに笑っている様子でしたが、他の白衣どもが慌てた様子でその彼だか彼女だかをどこぞへひっぱって行きました。 ひっぱられながら、人間はけだものにひらひらと手のひらを振りました。 そんな人間を見たことがなかったけだものは、煩いシグナルに耳を塞ぐように目を瞑って、少しその人間のことを考えながら眠りました。 ある日また、コツリコツリとやる音がします。 目を開けるまでもなくその性別の分からない人間でした。 人間が、ガラスの前に模様のたくさん書かれた大きな紙を広げます。模様はひとつひとつ形が異なります。それくらい識別できるけだものは、胡散臭げに金の髪の人を見ます。見られた本人は、そんな視線なぞ気にもならないのでしょう。 「あー、べー、つぇー、でー、えー、えふ、げー」 なにやら唱えだしました。ガラスと水を隔てているのでなにぶん聞こえにくいのですが、なんどもなんども、ひとつひとつ模様をなぞりながら同じことを繰り返すので、3回も繰り返す頃にはけだものはすっかり退屈して、それらを覚えきってしまっていました。もうたくさんだ、と再び尻尾を今度は力加減をして振るったけだものに、やはりその人間は笑うと、手を振ってどこぞへ去っていきました。 次の日、またコツリコツリとやる者がいます。 やはりあの金色の髪をした人間です。 昨日のひとつひとつ違う音を持った模様を、今日は幾つか並べて人間は手にしたボードに書きました。 『』 その羅列の示すところがわからず、また胡散臭そうに人間を見ると、見られたほうは不思議な笑い方をして、 「。」 と言いました。 「。」 もう一度唱えると、人間は自らの胸を指します。 「、」 今度は人差し指で、けだものを指しました。 「みゅうつー。」 それは知っていました。自らを表すらしい呼称です。彼は最初に人間の言った、謎の音と、模様の塊がなにを意味するかを理解しました。ゆっくりと瞬きをすると、人間はボードの文字を消して、なにやら書き出します。 『ミュウツー』 「ミュウツー、」 とミュウツー。けだものが初めて覚えた、つづりと音でした。 幾日かがすぎました。あいかわらずその人間は性別不詳でしたから、けだものは早速覚えたてのという呼称でその人間を他の白衣たちと区別することにしました。 は他の白衣を違って、いつも何かしら、笑みと言う表情を浮かべています。眼鏡越しにも、その表情はよく見えました。 見事な完成度を持ったその人間の、唯一の欠陥は目のようでした。常に度の強い眼鏡を、鼻の先にひっかけて、白衣のポケットに手を入れてはひょいひょいと歩いていました。表情が見えたのは、もしかしたらそのしょっちゅうずり落ちる眼鏡のせいかもしれませんでしたが、少なくともそれはわざとではなく、は他の白衣たちとは違って、その眼鏡で、青い目を一生懸命隠したりはしません。 いつからかけだものは、白衣たちが自分を、恐れているのだということに思い当たりました。それは不思議な感覚でしたが、それよりも、はやはり自分を恐れていないらしいということも不思議でした。 コツリコツリとやるたびに、はミュウツーになにか持ってきました。けだものは、以前よりミュウツーという呼称が、自分の中に定着して、自分のものになっていることを感じていました。 コツリコツリが10日も続いた頃には、もうけだものは立派に本を読み、尻尾や指先でガラスに文字をなぞることくらいは片手間にできるようになっていました。 |
(091007) |