Here is the sometime flower garden. It's just waiting for you.
ここはいつかのおはなばたけ。ただ君をまつ。



04.
(約束は常に果たされないためにこそ在る。)



 ミュウ・ツー、と呼ぶ声に、疲れが混じり始めたのはいつからだろうかと、獣はぼんやりと思考していました。という不可思議な人間が、獣をそう呼んで微笑みかけるようになって、もうずいぶんと時が経過したように思います。変わらずその人間は、奇跡のようなうつくしい造形と頭の構造を保ったままで、獣は奇跡のような力と能力とをますます高めていました。
 人型に転化することを覚えて以来、獣はますますその力を強くしました。それと同時に、人の形をしているときに体をいじられると、獣の形をしているときよりもずっと、痛みと苦しみを覚えることに獣は気づきました。しかしそれでも、なんとなく彼は何度となく人の形をとりましたので、その傷や体に通る管は増えるばかりでした。
 そもそもけだものに施される "実験" と "研究" とは、その苛酷さと頻度を増していました。
 自らの一部が切り取られ、刻まれてガラスのシャーレに押し込められるのを、獣はどこか無感動に、いつも眺めていました。血が大量に抜かれることも、たくさんの他種の獣と戦わされることも、ミュウ・ツーの日常でした。その指揮を取っているはずののほうが、疲弊しているように見えたのは、なんとも滑稽な話でしたでしょう。
 その未だに性別の知れないという人間は、この遺伝子操作の偶然に生み出したミュウ・ツーという未知の獣を、完全に把握するためにこの研究所へ招かれていたからです。

 わたしは遺伝子と種の存続とサイコキネシスについてで専門をけんきゅうされているのだよ。
 くたびれたようにそうに言われたときも、獣はとくになにも思いませんでした。
 自らの出生は知っていました。ミュウと呼ばれる幻の獣の遺伝子をベースに、そのほかの様々な獣の遺伝子、それからある研究者の遺伝子とがかけ合わされて、自らが生み出されたこと。たくさんいた、自分に似た獣たちは、ミュウ・ツーと呼ばれる一個体に到達することのできなかった "失敗例" であるということ。他のどれとも異なる個体として認識された故に、ミュウ・ツーがミュウ・ツーであること。がその研究の責任者であること、その研究の指揮者は他にいること。ツーというのが数字の2であり、ミュウを素体にした2番目の存在にすぎないという認識を受けているということ。
 それらについて理解していても、彼はなんとも思いませんでした。
 そう、この獣は雄でしたのです。いつからか彼という代名詞を適用することが自然なことであるように、その獣は人に近づきました。正確には、という人間に近づきました。それは人を超えた、さびしいところにありました。

「ミュウ・ツーというのは変な名前だね。」

 何度もは、彼の名前のことを話にしました。
「お前たちが名付けたのだろう。」
「私が来られた時にはもう、ミュウ・ツーだったんだ。」
 もう少し早く来ていたらもっといい名前をつけてやったのにと、は笑います。
 つかれているのだろうかと、彼はその美しい横顔を見ながら考えていました。彼の銀の髪を、室内の暖房器具が吐きだす風が揺らします。なんとなく痩せたの頬を見、ミュウ・ツーは無感動に思考を続けていました。
 つかれているのだろうか?
 の瞳は真っ青で、実験のためにときおり出される外の景色を思い起こさせます。
 獣を切り刻んで、シャーレに押し込めるのはなのに、そのことを恐れ、そのことに疲れ、そのことを悔やみ、そのことを恥じて、そのことを悲しんで、そのことにくたびれてしまっているのでしょうか。おかしなことだと、彼は思いました。それはとてもおかしく、滑稽で、意味のないことに思えましたのです。実際その通りでしょう。天才である自身、そのことに気づかぬはずはないのです。
 無駄な労力を使っている。
 獣はそう感じました。そんな無駄なことを思考し、そのことに気を取られて体力を消耗するほど、馬鹿馬鹿しいことはありません。はただ、の研究を進めればよいのです。


「私はね、」

 その日はいつになくくたびれていました。
 長い金の髪が月の光のように見えました。獣は思わず、腕を伸ばしてその髪をひと房とりました。
「きみと友達になれたかった。」
 ぽつんと落ちた囁きは、涙に似ていました。
 しかしは泣いてなぞいませんでした。は決して、泣いたりなぞしませんでした。なぜならは天才で、だからこそ感情の一部が欠落していたからです。は決して泣きません。いつも微笑んでばかりいます。は決して怒りません。ただかすかに、眉をひそめてわらうだけです。
「ともだち?」
 以前にも言われた言葉を、ミュウ・ツーは鸚鵡返しに繰り返しました。
 その言葉の意味は、本で読んで知っていました。しかし実感としてその言葉を知らず、またと自分との関係がそうであろうかというと、辞書そっくりのその知識にあてはめると、違うのではないかと思われました。
「しかし私は、」
 の口端が小さくわななきます。
 しかしは泣きませんでした。
 決して泣けませんでしたのです。

「…つらくはないかい。」

 長い永い沈黙のあとで、がそう囁きました。
「つらい?」
 彼にはやはり、その単語の意味もその質問の意味もわかりませんでした。
「痛くはないか、」
 なんとも無意味な質問でした。
 だからミュウ・ツーは黙っていました。研究員たちがみな帰って、静まり返った夜の研究所に、獣と、ただふたつの生命が、しずかに呼吸をしていました。

「…憎いかい。」

 その囁きはヒタリと、首元に刃をあてがうのに似ていました。
「憎しみ?」
 ミュウ・ツーは銀の目を細めて、首を傾げます。
「お前はその感情を知っているのか?」
 その質問に、は奇妙な笑い顔で首を振りました。それは諦めすら含んで、天才と呼ばれる者にしては、あまりにみじめに見えました。

「私は誰にも、なんにも思われないよ。」

 それがいつもの独特の間違った文法なのか、そのままの意味なのか、獣にはいつまでも判断がつきませんでした。



(110217)