Here is the sometime flower garden. It's just waiting for you. ここはいつかのおはなばたけ。ただ君をまつ。 |
05. |
(花はいついかなる時も誰のためにも咲かない。) |
その日は、少し穏やかな顔つきをしていました。白衣を脱いで、眼鏡はかけたまま、細い足をジーンズに包んで、はやはり男とも女とも知れぬ美しいかたちのまま、獣の眠る水槽の前に立ちました。黒いセーターはには大きいのか、なんだか肩からずり落ちそうでした。Vの形に空いた襟から、白すぎる肌が見えていました。 「ミュウ・ツー、」 呼ぶ声に彼は目を開けました。緑色をした液体が、ゆっくりと水槽から抜かれてゆき、代わりに空気が注入される細い音がします。完全に水が引き、獣が水槽の底に足を付け、ガラスがせり上がって獣と外界とを隔てる壁が完全になくなったその時、おやすみと囁くようなその少し低い掠れた甘い声で、は言いましたのです。 「おいで、」 囁くような、うたうような、誘うような音の響きでした。 いっぽ、今まで分厚い特殊ガラスの遮っていた境界を跨ぐ時に、獣は自然に人の形に転化していました。 それにもやはり、泣き出しそうにが笑います。 「今日はおやすみ。」 なにもかもが。 そう笑った顔は、どうにも得体が知れず、ただ獣の心の輪郭を、なにか囁くように、あるいは声のない悲鳴を上げるように、高いトーンで擦っていきました。 黒眼鏡の白衣たちが、じっと自分たちを見ていました。その視線は、いつもまとわりつくように重く、不快でした。今日はそれらの視線がないことに、彼は初めて気がつきました。 「言われただろう?」 まるでその思考を読んだように、がくつりと肩を竦めて笑います。 「今日はおやすみなんだ。」 その時の笑顔は、先ほどのものと違って楽しげでした。 首を傾げた獣の手を、の細く白い手が取ります。彼は一瞬その細さと頼りなさにビクリと肩をふるわせましたが、抵抗しては壊してしまうだけです、慎重に力加減をして、されるがままに振舞いました。の手は、獣にすれば驚くほど弱い力で、それでもけだものをひっぱりました。 「行こう、」 の青い目が笑います。 「どこへ、」 「君は声、不思議だね。夜の波音が似ている。」 会話がかみ合わないのは、いつもの通りです。 「それは訊いていない。」 「そう?眠る前は聖書を読んで欲しい声だ。懺悔は聞いてを欲しい声だね。」 「…。」 獣は会話を続けることを諦めて黙りました。 いつもは厳重に様々な枷を付けられて出る重たい扉を、軽々と潜ります。こんなにも簡単に進めたのかと、内心獣が驚くほど、は平たいカード一枚ですべての扉をスイスイと開けて進みました。まるでは、重たく冷たい鉄の扉の支配者でした。扉はみなに頭を垂れて、その道を開けました。ただミュウ・ツーは、ぽかんとあきれながらその後についてゆくだけです。幾つものボタンを押し、カードを通し、手動で重たそうなバルブを回して、黒眼鏡たちが扉を開けていたことがまるで徒労であることを、彼は初めて知りました。 だんだんと、外の匂いが近付いてきます。 外を巡る大気は、いつもその匂いが違いました。戦いに赴かされる少し前の、ほんのわずかな間だけしか嗅ぐことのできないものでしたが、それは奇妙にあたたかく、ここちよいものだったのです。 最後のひときわ重たい扉が、開かれます。 明るい光が、その隙間から漏れだしての髪をキラキラと輝かせました。逆光の中、振り返ってが言います。その表情は見えず、しかしやはり、わらっているのでしょう。はその表情しか、知りえませんでした。 「ミュウ・ツー。」 どうしてその声は、いつもそんなふうに響くのでしょう。 「テレポートだ。」 「…どこへ。」 「私がイメージするを読めばいい。連れていって。」 やはり逆光でその顔は見えません。 繋がれたままの手のひらの、皮膚の表層を逆に辿って、の脳のその思考の表面を読み取るとき、彼はふいに気付きました。 きっとから、自分の顔はよく見えるでしょう。 の頭をくるむイメージはただ鮮やかに明るく、一面の花に溢れていました。 ―――ひかりだ。 どうしてそんな風に思ったのか、彼にはずいぶんながいこと、わかりませんでした。 |
(110217) |