Here is the sometime flower garden. It's just waiting for you.
ここはいつかのおはなばたけ。ただ君をまつ。



08.
(先に在ったのは卵でも鶏でもなくひとつの細胞である。)



「ミュウ・ツーというのは、へんな名だね。」

 ある日のようには、突然にそう言いました。
 。それはフレスコの天使にも似た、男とも女ともつかない形をした、美しい生物でした。
「もっと違う名前をつけたのがよかった。」
「…、」
「たとえば、とか。」
 ふふふと笑うの考えていることは、常のこととはいえさっぱりミュウ・ツーには知れません。ですから黙って、聞いていました。以外の白衣の人間たちがみな寝静まってからも、獣の発する言葉はすべて記録されていました。もちろんとの会話もすべて、録音され、分析されてしまわれています。こうして誰もいない部屋で水槽のガラスを挟み、会話している、この時でさえ、誰かがヘッドフォン越しにこの会話を聞いているのです。
「常に科学と研究が、私を生かした。」

 ヘッドフォンの向こうで、のとりとめのない言葉を聞いている人間は、いったいなにを思うのでしょう。
 ただバック・グラウンド・ミュージックのように、聞き流すばかりでしょうか?それともひとつひとつの意味を拾って、理解しようと努めるでしょうか?それとも天才の考えることなんて、と最初から、気にもしないでしょうか。
 ミュウ・ツーはいつも、の言葉を聞きながら、半分は音楽のように聞き流し、半分は心の内に貯めておいて、も白衣もみないないたったいっぴきのときに、取り出してはその意味を考えていました。そうしてじっとその獣の内側に録音されたの音を聞いていると、なにか、なにかの話していることとは別の囁きが、高いトーンで心臓の上を掠めていくような気がしましたが、それがなんと言っているのかまでは聞きとることができずにいました。
 
「この二つを私からとったら、きっと私は生きていかれない。」
 そう思っていた。
 の言葉は過去形でした。ミュウ・ツーはなにも言わず、ただ目をうっすらと開いて聞いています。

「そのふたつが私をかたちづくった。」
「…それがおまえの神ということ?」

 ふいに以前の会話を思い出して、ミュウ・ツーが尋ねました。
「いいや。」
 がわらいます。
「創造者が被創造者にとって常に神になり得るか?いいや。被創造者が創造者にとっての神になり得るか?無きにしも非ず。卵と鶏の話を知っていられるか?」
「…なんの話だ?」

「ここから出よう。」

 本当にいつも、会話になんの脈絡もない―――。
「こんなところ出て―――どこか遠くへ行こうよ。ぜんぶ、捨てて行こう。」
 青い目が静かにまたたいています。星の静けさに似ていると、ろくに星を見上げたこともない獣は思いました。それから、ぜんぶ捨てるのはおまえだけだ、とも獣は思ったけれど黙っていました。
 獣は捨てるものなどなにひとつもたなかったからです。
 ここにいても、獣は損なわれ、失われるばかりでした。血を搾取され、戦闘を強要され、能力を開発される。それらのどれがいったい、獣自身のためになったでしょう?人類の発展のために、そう言った旗の下で、科学者たちは獣を造り、また、壊します。それは子供が積み木遊びをするのを眺めるのに似ていました。積んでは崩し、崩しては積み。確かにだんだんと要領を得て、積み木の塔は高くなるのでしょう。崩れ落ち床にぶつかる積み木の痛みなど、子供には思いも寄らないことです。その子供たちの筆頭に立って、さまざまの生命で積み木を無邪気に楽しんできたはずのこのひどく積み木遊びに秀でた子供がです、どうして数ある積み木のひとつにこんなにも執着しているのでしょう。
 獣にはわかりませんでした。
 自身が壊れた後、きっとはミュウ・ツーを超える獣を造り出すでしょうに。

「逃げよう。」
「なぜ?」
 銀の目は本当にそれが不思議で尋ねました。
 この会話を聞いて、分厚いガラスの向こう、それを包む金属の壁の向こうのヘッドフォンの向こうの白衣が、慌てて立ちあがっているころに違いないのです。

「君はここにいたいの?」
「おまえはここにいたいだろう。」

 科学と研究によってのみ、生かされてきた子供。
 その姿が、ミュウ・ツーには見えるように思いました。はきっとそれ以外の生き方を知らないのです。
 試験管の中に生まれ、水槽の中に暮らし、切り刻まれ、目の前に差し出される敵と戦闘し、水槽を叩く気まぐれな人間と話をすることの他を彼が知らないように。
 それでもその、白く細い手がミュウ・ツーに差し出されます。
 長い金の髪。眼鏡の向こうのくたびれた微笑み。
「おいで」
 細い手。
 ああ
 白い。
「いいこ、」
 うたうように囁くのはなぜ?息をひそめてもすべてみな聴こえているのに。
 白い手。まるで亡霊のようだと、彼は、思い、そして

「…おいで、」

 思考を止めました。その白い腕が囁きます。
 おいで。自分で、その、分厚いガラスを破って。
 できるはずだ、とが声もなく語りかけてきます。それはテレパスを介さず、しかし獣にその意思を伝えました。君が少し念じるだけで、こんな脆いガラスの壁は、崩れさるのだよ、おいで、おいで。できるはずだ。
 できる。
 それを獣は、言われるまでもなく知っていました。ただしなかっただけ。ここで生まれて、この中にいる。この場所になんの愛着もなくとも。ここで生まれた―――それしか知らなかったから。
 戸惑うように、の心理を読み取ろうとするように獣が目を細めます。それにが初めて、どこか不安げに、しかしかすかに微笑みました。

 ―――この手を取る。

 遠くでエマージェンシィを告げるシグナルが鳴っています。赤い光が明滅し、あわただしく走る複数の気配がします。
 しかしそれらすべては、非現実に過ぎません。
 その時獣には、それだけがこの世のすべてでした。


(110224)