Here is the sometime flower garden. It's just waiting for you.
ここはいつかのおはなばたけ。ただ君をまつ。



12.
(ここはいつかのおはなばたけ。ただ君をまつ。)



 いつか。いつかのお花畑です。
 もう世界には、ここしか色はありません。
 ほかは黒く焼け焦げた大地と、廃墟と 瓦礫と、未だくすぶる地上の熱と、荒れたままの海だけです。
 山は砕けました。岩は砂になり、川は枯れました。
 世界はほろびました、たった一頭のモンスターの、いいえ、たった一人の死によって。
 世界中のありとあらゆる生物が対抗しましたが、一匹の化け物の前にどのような勇者も兵器もみな倒れました。
 そうして。
 そうして世界に残ったのはたった一頭のさびしいけだもの。
 …そのはずでした。
  喪失の痛み    それに伴った人間という生命への失望は果てしないものでした。悲しみと"ぜつぼう"は凄惨な殺戮を連れてきたのです。奪った者への怒り。かつて自らも、奪われ、損なわれたこと。それから貯めこまれていた憎しみと、それを抑えていたたったひとりの人間が永久に失われたことは、獣が我と周りを忘れるには十分な要素でした。そのとぐろを巻いた蛇のような、すべてなぎ倒す嵐のような、龍にも似た竜巻のような。獣の感情の発露は、すべて負の方向へ傾きました。
 それはあまりに強大なもので、世界すべてを覆うほどでしたのです。

 しかし我と周りを忘れても、獣は忘れませんでした。

 いつか、どこかのお花畑で、かの人と自分が、とてもしあわせであったこと。
 お花畑はその象徴でした。絵に描いたような、あまりに小さなサンクチュアリ。忘れられなかったというのが、正解でしょう。
 そうしてそこだけが、切り取られたように真っ暗に焼け焦げた世界に取り残されました。
 そうしてその哀れなけだものも、たったのひとりで残された、はずだったのです。

 獣はうつぶせに、花畑に倒れていました。
 いつかのようにうっすらと目を開けると、体中が重たく、疲弊しきっていました。鼻の先で白い花が、わらってお辞儀をします。彼は未だ自らが人型を保っていることに呆れて笑い、それから花にも笑いました。
 風が吹いています。
 世界は焼け焦げたというのに、どうしてここに吹く風はこんなにもやさしく気持ちがよいのでしょう。
 ねむたい。
 獣はそう考えていました。
 ひどく眠たく、疲れていました。
 水槽の中にいたキメラも、きっとこんな感じだったろうと思いましたら、それも悪くはないと思えました。それすらもおかしく、くつり、と喉を鳴らします。サワサワと、風が渡って行きました。それは涼しく、いまだ獣の中に燻る熱を、冷たい手で撫でて鎮めるようでした。
 ねむろう。
 花を見つめた後で、彼はもう一度、その目蓋を閉じます。

 眠ってしまおう。

 ここはおはなばたけ。ばかげた空想上のサンクチュアリ。
 閉じた瞼の裏に、金色が見えるような   気がしただけです。そうならいいのにという、願望だったかもしれません。

「…おにいさん、」

 獣の背を、揺する者があります。
 人の形をした獣は、うっそりとその目を開けました。なにか聴こえたような、これもまた錯覚でしょう。もう一度、と今度こそ閉じられようとした目蓋を、再び揺らすものがあります。
「ねえ、…ねえ。」
 それは泣き出しそうな声でした。
 しかし獣は、泣き声というものを聞いたことがありません。彼がかつて親しくしていた唯一の人間は笑うばかりでしたし、白衣たちは今際の際まで表情をひとつも変えた試しがありません。あと彼が聞いたことがあるのは、悲鳴だとか怒声だとか罵声だとか     必死に呼びかける声や、なにかを叫び訴えかける声、哀願する声なども聞いた気がしましたが、それらはすべて一枚フィルターを隔てたかのような遠い記憶で、なんとも現実味がありません。
 ただ獣は、そのか細く震えた頼りない響きの声を、不快と感じました。精神の輪郭が波立つような、不安をあおる音だと解釈して、彼は重たい体をゆっくりゆっくり、それは大義そうに持ち上げましたのです。
 やはりそこは、いつかの花畑でした。
 花がわらうように、揺れています。獣の眉間に寄った皺が、自然、薄くなります。

「いきてた。」

 お腹の底からあたたかい息を吐き出すような、声でした。
 ぎょっとした獣が背中を見下ろすと、小さな子供が、最後にあの人間が見せたのと同じような、うつくしい微笑を浮かべて座り込んでいました。細い手足には幾つも傷がつき、泥や土に汚れてはいますが、うつくしいこどもでした。
      黒い髪。
 その微笑に一瞬ぎょっとした獣は、その子供の髪の色に肩を撫でおろします。
 どうしてあの人と、この子供が似ているだなんて思ったのでしょう。
 すべてころしたはずなのに、なぜこの子供は残っているのか。
 そこまで考えて彼は、考えるまでもないことだったと思いなおします。この花畑だけ、我を忘れても獣はわすれませんでした。忘れずにとっておいたのです。だからこの場にいた生物は、花も草も虫も、みな無事でした。きっとこの子供も、ここにいたのです。
 どうしようかと彼は悩んで、しかしもはやなにをするのも億劫な自分に気がつきました。指先ひとつ動かすことすら、したくないと思いました。
 しかし子供が、その真っ青な目玉からほろほろと水を流してなお微笑するものですから、獣はすっかり困り果ててしまいました。

「よかった…わたし、ひとりぼっちに、なっちゃったかとおもっ、て。」
 つっかえつっかえ、子供が言葉を続けます。ちいさな手のひらで、流れ落ちる水を拭っても拭っても、きりがありません。
 無駄なことをしている。
 獣は思いました。拭ったところで止まらないのが、わからないのでしょうか?
 じっと黙ったまま、座り込んでいる獣をなんと思ったのか、子供が目から水分を垂れ流すままにその銀の目を覗きこみます。
「おにいさん、だいじょうぶ?怪我、してるの?」
 ぎょっと身を引いた獣の頬を、小さな手のひらが挟み込みました。
 真っ青な、目だ。
「いたいのいたいの、」
 きらきら、きらきらと水が流れています。
 ほろほろと、水がこぼれています。

「とんでけぇ、」

 くしゃりとしゃくりあげながら、子供が笑いました。
 獣は今度こそびっくりして、呼吸すらも止まるように思います。わらっている。挟まれた頬が熱い。みずが、
 無意識に獣が、その白い指先を子供の頬に伸ばしました。
 そおっと拭うと、その水は儚く、どこかへ消えてゆきます。けれどもなお、止まることなく流れ落ちてくるのです。とまってくれと、願う自分に、初めて獣は気づきました。
 どうして。
    どうして、」
 呻くように、食いしばられた獣の口端から、言葉が漏れました。

「おにいさん?」
 急に腹を抱えるように蹲った男に、少女が慌ててかがみこみます。男の手のひらは、それでも少女の頬に寄せられたままでした。片手で胸を抑えるように、男は蹲ってそして、
「泣かないで。」
 少女の言葉に、泣く、という動作を初めて彼は理解しました。
 噫、自分はいま、泣いていて、そしてこの子供もまた、泣いていたのだ。
 身の内側から生ずる水は熱く、止まることをしりません。子供のてのひらが、それをぬぐおうと伸ばされます。…無駄なことなのに。そう思いながら、彼はそのやわらかい指を拒めずにいました。熱い、苦しい    くるしい。
 涙がとまりません。
「おにいさんも、ひとりなの?」
 少女が一生懸命、語りかけています。
「泣かないで。もね、ひとりなの。だぁれもいないの。」
 噫、と胸の内で彼は頷きました。
 だぁれもいない。当たり前だ。すべてわたしが、ほろぼしたのだ。
 しかし言葉にはなりきらずに、ただ涙ばかり。

「ねえ、おにいさん、おにいさんの名前は?」

 その言葉に、彼は未だ流れ続ける涙をそのままに顔をあげました。
 目の前におんなじように、涙を流しっぱなしの少女の顔があります。
「わたしはだよ。おにいさんは?」
 その小さな唇が、泣きやもうと引き結ばれて、それでも失敗して震えるのを見ます。それでも安心したように、笑っている目元を見ます。

「……、」

 男がそう答えました。
?」
「そう…、そうだ。私の、名前。」
 はらり、と落ちたひときわ大きな涙はなんだったでしょう。それを小さな手のひらに受けて、少女がわらいました。
「なぜ笑う?。」
 覚えたての名前を呼んで、男が首を傾げます。
「だってね、ひとりぼっちでこわかったの。さびしくて、かなしかった。」
 少女の頬には赤みがさして、内から輝くように見えました。黒い髪、青い目、うつくしい子供。

「でももうひとりじゃないもの。」

 ねえ、ともだちになって。そうして私とずっと一緒にいてくれる?
 (   私は、君と友達になりたかった。そうしてずっと、私と一緒にいてほしい。)

 どうしてでしょう、どこからから聴こえてきた言葉に、男は少女を抱きしめて、子供のようにわんわんと泣き始めました。その声はどこか遠くから、男の身内から響いてきたように思えましたのです。

 ここはいつかのおはなばたけ。
 ただ君をまつ。



(110224)