(ねむれよいこ)






 泣いているのと尋ねる声は、思ったよりも落ち着いていて、うろたえるようなそぶりはなかった。ただただ幼い子供がするように、確認するために彼は訊ねた。
「泣いてるの、マスタ。」
 こつりとおでこがあわされた。
「わるいゆめ、見たんだね。」
 ゲンガーの顔がすぐ間近にある。彼の気配は薄い。吐息が触れる距離にいる。
 それに驚くより、その目の前の男の表情が安らかなことに彼女は驚く。
 穏やかな微笑で瞼を伏せた彼は、なんとも美しく見えた。普段の脆さはまるでなかった。長いまつげ。あわせられた額を離すとき、少し照れくさそうに赤い目が微笑んだ。長い前髪が、さらりと名残惜しそうに離れてゆく。
「悪い夢は食べてしまったから、」
 普段の神経質に尖った響きはなりを潜め、

「大丈夫。」

 穏やかで優しい響き。低い声。
 おもわずはたりとなみだが落ちた。細いとがった指先が、頬を拭う。
「泣かないで、マスタ。もう大丈夫。」
 そのままやんわりと長い腕の中に彼女を抱き込むと、それはそうっと背中をなぜる。噫こんなに穏やかに凪いだ彼を見たことがない。とくりとくりと心臓の音。悪い夢は彼が食べた。なみだは驚くほどあつい。
 これがほんとうの、そこなわれるいぜんの彼の姿であるのかもしれないと、彼女はふいに思い至った。
 雨のなか、怯えていた、捨てられたゲンガー。
「よいこ、よいこ…」
 トン、トン。とやさしく背中を叩く手のひら。子供をあやす聖母のような微笑を浮かべる男の白い頬を、驚きとも安心ともつかない信じられないような感情をたたえて見つめる。
 すると照れくさそうに、その瞼を手のひらが覆った。
 長い指。

「おやすみマスタ。」

 はあ、とやわらかい吐息が吹きかけられたのを感じる。ああ、見る間に眠りに絡めとられてゆく。
「おやすみ。」
 そう言ってもう一度、ほほに優しい指が触れるのを感じた。
 おやすみなさい、とこころのなかで、返した呟きは聞こえただろうか。きっと聞こえた。眠りの中で彼女は微笑む。それを見つけて、彼がくしゃりと目元をほころばせてわらう。
 彼は夢を食う。他人の夢を見る。
 だから音のないおやすみも、聞こえたに違いない。額は合わされたままで、眠りばかりとろとろと優しい。やわかにとじた夜の中。
 わるい夢なら彼が食べた。
 だからそう、まっしろな夜だよ。

(20110811)