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「そうだ、」
ふいに思い出して、アトムは泣き出したくなった。
「そうだ、あの時は花摘みに来たんだった。」
目の前にはどこまでもどこまでも真っ白な躑躅野原が続いている。空は星の涙を搾ったように真っ青で、むくむく白い雲が膨らんでいる。風が雲を流して、アトムの頭上で形を変え、膨張しながら過ぎてゆく。見上げたら、地上にも、雲があるみたいだ。
空と地平の境界は限りなく曖昧で、まるでぽっかりアトムだけ、世界に浮いているような気がした。
一体今自分が立っているのは躑躅の野原なんだろうかそれとも雲の上なんだろうか。なんていう誤作動だろう、アトムはうろうろ不安げに辺りを見回した。
あの頃の自分がひょっこり雲の―――いいや違った、躑躅の隙間から覗きはしないかしらと期待と不安とを半分ずつ混ぜこぜにして。
ざやざや遠くの躑躅が鳴ってる。優しい風が、そよいでいった。
雲だけがぐいぐい、アトムを置いてながれてゆく。
まるで自分がすべて、世界からも時間からも切り離されて、浮かんでいる感覚。
五月の日差しに光が解けて、そのままどこかへ流れていった。ぐるりとそこいら中を見回したけれど、やはり誰もおらず、もちろんあの頃の自分たちなんているはずもなく。
アトムは少し、さびしくて笑った。
あんまりひとりでこんな青と白とあおとの不気味なほどに美しい世界に浮いているものだから困ってしまったのだ。彼は今まさに、過去からの漂流物であり、永遠の子供の形をしたものであり、何者にも作用されないひとつの惑星であった。
噫、と呻くように彼は笑う。彼は過去の遺物。子供の姿には酷く不釣合いな苦い笑み。
「あの時はと、それからみんなで来たのだった。」
その時の光景を思い出す。消し去ってしまいたいと願うのに、プロテクトをかけて大事にしまいこんでいるその映像。
やはりあの時も、空は底も見えぬほど青く、雲は流れ、躑躅野は白かった。花々の、雲の、青のあわひに彼の友人たちが、が、無邪気に顔を覗かせて、笑いさざめきあっていた。
「アトムー!」
きらめくような声で、誰かが彼を呼び、そして彼もまた―――――
アトムは少し笑った。目玉からはまっさおな涙がボロボロとこぼれた。
彼は地に足つけてここにいた。時の流れに乗りここまで辿り着いた。ここにいる。彼はこの世界にストンと沈んでいるだけであって浮いてなぞいなかった。ただあの頃と彼の形容する、過去の部分からゆっくりと離れ、そして流れてきただけだのだった。遠い彼らを置き去りにして。
「、、…」
思わず名前を呼んだ。あんまり久しぶりすぎて、まだその発音を覚えていたことに驚いた。
彼はここにいる。
どうしようもなくひとりで、しかし圧倒的世界中の名も知らぬ大多数と共に。置き去りにしたものを未だ抱えたままに。
「」
彼は呼んだ。
どこまでもどこまでもどこまでも、それは風に紛れて白い雲の空と真っ白な躑躅野に響いていた。噫あんまりここは綺麗過ぎる。呟いた言葉はひとりぼっち。ここはひとりの空。すべて、すべてを思い出す。
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