温室に棲むのは人に非ず。 底に棲むのは美しい怪し、音の無い歌うたうもの。 |
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彼がそっとそっと、囁く。この世界を壊してしまわないように。 そこは硝子の世界。やわい硝子の羊膜の中、キラキラと差し込む太陽に輝く真っ白な万華鏡の世界。 彼の、彼の、彼の。 美しい世界、そこに住むのは美しい人。 彼のすべて、すべて、すべて。 優しい人、いとおしいあなた。 そこに込められているのは小さな願い。そこを作り出すのはささやかな我侭。 赤い薔薇はここにはない。あるのは白い薔薇。美しい炎のように、緑の波間に浮かぶ。 まん丸にはちきれんばかりの花びら。蕾の下に眠るのは彼の夢、彼の祈り、そして彼女の吐息だ。 そこには閉じ込められている。失われたものもなくしたものももう戻らないものも。誰もがそれを望むだろう。欲しい、欲しい、永遠の、命。それが欲しいと。 だってそこにはすべてがあった。 彼が囁く。魔法のように。そこには全てがある。彼の望むものすべて。 すべて、すべて。 「噫、私の、私の、私の…。」 乾いてひび割れた、老いた手のひらがそおっと彼女の滑らかな頬を撫ぜた。風がゆく。閉じられた世界のなかを循環する空気の波だ。ばらの木が揺れた。漣は遠く、ゆめまぼろしのごとく鳴る。 そこには木も海も空も太陽も月も星も花も風もみな閉じ込められている。野原で少年が、美しい蝶をその小さな両の手のひらで閉じ込めるのって、きっとこんな感じだろう。 そう、すべてだ。そこにはすべてがある。 地球ごと、閉じ込められている。彼の手のひらの中に、彼女の微笑みの中に。老いた手のひらの下に、若いままの目蓋の裏に。 その地は世界のすべて。そして彼の命。 |
そこに住むのは彼のいとしいお人形。 |