温室に棲むのは人に非ず。 底に棲むのは美しい怪し、音の無い歌うたうもの。 |
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ガラス越しの記憶。 透明な緑色をした水と、分厚いガラスに隔てられた、世界。 そこで眠っていた。いいや、 正確には違う。 目覚めるために、生まれようとしていた。 少しずつ構築されてゆく私のパーツ。少しずつ注入され蓄積されてゆく景色、言語、映像、会話、知識。 すべてが私を形作る。私を構成する。 うっすらと目をあげると、水とガラスの向こうに、見える。 あの人。私を呼ぶ。 手のひら。ガラスに押し当てられている。 ガラスをその指先が、つ、となぞる。 あいしている。その口が言う。 知らないけれど、私は知っている。その単語の意味。 その言葉が私のものではないことも。 「a a、」 口から泡がでるといつもガラスの外でけたたましい音と光がうるさく鳴った。白衣の人間達が、忙しく動き回るのを、なんとなく締め付けられるような心地のする喉で私は眺めている。 「あ i、c」 ヅウ、ヅウ、と音が鳴る。そして彼の、見開かれた目、ガラスに押し当てられた手のひら。 それを見、そして聞いていると、ああ まるで私は目など開けてはいられなくなるのだ。 その言葉の意味も。 何も考えたくはない。生まれたくない。 ああ私は知っていたのに。 今となってはすべては過ぎたこと。 白いばらの蕾。緑の波間にぷかぷか浮かぶ。閉じられた世界の気流の流れ。光の結晶。私はその底に沈んでいる。沈んでいる。貝の様にあるいはただの石ころ? 私は緑の波間に眠る。 白いばら。ふっくらと膨らんで、その重なった花びらの下にゆめまぼろしを隠している。 あいしている。 その響きもすべてその花びらの下。 私は貝のよう。 その底に沈む。 *** 温室の底にも光は届く。うらうらと揺れて、まるで海のよう――海など行ったこともないけれど、そう思う。 静かだ。とてもとても。 温室の中を対流する風が、遠く梢を揺らす。漣のよう。聞いたこともないけれど。耳の奥に響く水音を思い出す。 ガサリ、と聞いたこともない音が聞こえて、私は振り返った。 聞いたこともない、というのは語弊がある。聞いたことはある。あの人がいたころはよく聞いたし、私が動いてもそういう音はする。 しかし私は動いてはおらず、あの方はもう来ない。 白いばらの蕾から、顔を上げた。 背の高いオールドローズの茂が揺れている。 何かいる。濃い緑の茂みが揺れ動くのは、なぜかしら、とても心が騒ぐ。心、と言うのもおかしな話だけれど、でもそう思う。 大きくガサ、と茂みが揺れた。白い手がぬっと葉を掻き分けて現れる。―-続いて金の髪。驚いたように薄い青の目玉は見開かれて、私を眺めている。 「…人間?」 戸惑うようにその人はそう言った。 「いいえ。」 私の答えにその人は、見定めるように、まだ迷うように首をかしげて眉を寄せた。きゅうっと動向が狭くなったのはスキャンをしているためだろう。私は微笑む。 なんてきれいな金糸だろうか、陽の光を紡いだようだ。 「あなたは誰?」 まだその人は戸惑うように私を見つめている。 「金の髪、…すてきね。」 最初の質問の答えを待たずに、私は続けて微笑む。珍しい客人だ。初めての。 「私、私の庭で一角獣を見つけたわ。」 その人が目を戸惑うようにまた開く。首を傾げるたびに、金色が陽炎のようにきらめいた。 |
青い目の一角獣はばらの庭に迷い込むものなのよ。 |