温室に棲むのは人に非ず。 底に棲むのは美しい怪し、音の無い歌うたうもの。 |
*** |
「あなたの名は?」 「です。」 「?」 「はい。世界でいちばん美しい名をいただきました。」 「世界で、いちばん…?」 彼女が微笑んだ。まるであたりの光を抱き込むように輪郭に纏って、独特の空気を持っていた。その人の周りだけ、時間がゆったりと流れているようだった。 「あなたのお名前は?」 睫がゆっくりと上下した。睫の先に光が積もったように見える。その目玉の輪郭は青い光に縁取られていた。 「…エプシロンです。」 「あなたの名も、」 彼女がほほえむ。やわらかく美しい微笑。ひどく人間じみている。 「あなたの名も、きっと世界でいちばん美しいもの。」 「…?」 風もないのにその髪が揺らいだ。彼女の言葉は、いささか謎かけじみている。エプシロンは首を傾げた。 言葉遊びを楽しむのは、人間くらいのものなのだ。 だってなんて、非効率なことだろう。ただでさえ、言葉などという意思疎通手段は曖昧で、頼りないものだのに、それにさらに一枚、布をかけてわかりにくくしようという。 非効率的だ。しかし彼女は、それを楽しんでいるようだった。 「…あなたを造られたのは?」 「オズワルド・オー・エヴァンズ伯です。」 「エヴァンズ伯…」 エプシロンの目がすうっと細められる。その一瞬の間に、メインコンピュータはネットワークからその単語と情報を引き当てる。 「薔薇の栽培とイギリスの伝承研究で著名な方ですね…失礼ながら存じ上げませんでした。30年ほど前に…」 ふつと言葉は切れて彼は目の前の黒髪を見下ろした。肩口あたりで切りそろえられた黒い髪。楽しげに波打って光を散らしている。 「ええ。亡くなってしまいました。」 彼女はかすかに微笑んだ。30年前に。 では彼女はいつ造られたのだろうか。美しい顔(かんばせ)。その時代の最先端の技術を惜しむことなくふんだんに詰め込まれて、彼女は造られたに違いなかった。繊細な動作の指先もほとんど人にしか見えない容姿と。 しかし彼女の首筋には、グロテスクにも見える金属が影の中鈍く光っている。襟口の丸くあいた黒服から大きく覗くそれは痛々しい、傷跡のように見えた。 いっそ彼女がこんなにも、人間に近い表現を追われていなければロボットにとってそれはごく自然で、なんとも当たり前のことに見えただろうに。 「また来てくれますか?エプシロン。」 「…。」 「久しぶりに誰かとお話できてうれしかったのです。」 駄目でしょうか、と遠慮がちに尋ねる声は不思議な響きをしている。掠れたような、低いような高いような。変な残響とノイズが残る。おそらく声帯が使い古されようとしているのだろう。使い込んだ機械に、ガタが来はじめているのに違いはなかった。 だからエプシロンはそおっと尋ねた。 その質問はあまりにとげとげしていてなんだかこの優しい温室の空気を壊してしまうんじゃないかと機械らしくもなく不安になったのだ。 「…なぜあなたはまだここに留まるのです?」 もうあなたの主人はいないのに、言外にそう言った。その質問にやんわり彼女は微笑む。やはり人にしか見えない。 「…ここは楽園なのです。」 「…楽園?」 尋ね返したエプシロンを、彼女が見て笑った。不思議な微笑だった。 しあわせそうな、そしてこどくな。 独特の笑みだった。 「ええ。私はその番人。」 彼女の囁きが温室の光に溶ける。それはキラキラと琥珀色に輝いて渦を巻いた。 |
番人は囚われている。 |