温室に棲むのは人に非ず。 底に棲むのは美しい怪し、音の無い歌うたうもの。 |
*** |
温室の扉を潜って、初めて彼はその違和感に気づいた。 どうしたことか、いつも彼を優しく迎える空気が、しんと静止している。風の対流も、木々の擦れる音も聞こえない。差し込む日光でさえ、静止してしまったかのように静まり返っている。 こんなことは一度だってなかった。子供達が持たせてくれた、紅茶の瓶を少し握り締めて、彼はもう随分通いなれたはしばみの茂みを潜った。 「…?」 いた。彼女はばらの中に、座りこんでいる。 地べたに座って、黒いワンピースの裾が、丸く広がっている。ちょうどエプシロンからは、その背中が見えた。美しい首筋。そこに金属が、鈍く光る。 ほっとして、声をかけようとしたときだ、なんともいえない怖気を感じて、エプシロンははっと立ち竦んだ。耳の奥で警報が小さく鳴っている。 「?」 カタカタカタ、と首を軋ませながら、彼女が顔だけで振り返った。ほとんど人形の動作だ。その瞬きをしない大きな目と、口元に浮かんだ狂ったような笑みに、エプシロンはぞっとして一歩後ずさる。 「e プ c ro ん」 その口がそう呼んだ。彼を呼んだ。 「、」 「エプシロン」 一瞬その顔に、普段の美しい微笑が浮かぶ。顔だけで振り返ったことを覗けば、いつもの彼女だ。その目玉から、透明な液体が一粒、つう、と頬を伝って落ちた。 「私は命令を破っていました。知らず知らず。」 「え?」 「さようならです、エプシロン。」 彼女が笑う。カタカタカタ、と悪い夢のようにその首が小刻みに震える。 (ヅ――――――――――――――プツン。) 音が、弾け飛んだ。 ゴウ、と風が唸る。彼女を中心に、めきめきと風が暴れる。いいや、彼女から風が吹き荒れているのだ。 ばらの蕾が千切れて飛んだ。すぐ近くで、背の低い木がメリメリと倒れる。ガラスが遠くで、割れる音。まるで雨のように、破片がキラキラと降り注いだ。外の陽光も一緒に、温室に零れ落ちる。ああ外はこんなにも晴れた良い天気なのに。したたるような日光なのに。 「!!!」 風に逆らって彼は手を伸ばした。しかし彼女は、酷薄な微笑のまま、無感動にその目玉をエプシロンに向けるだけだ。 その間接が、あってはならない方向に軋む。その足元から、人工皮膚が千切れ溶け出し部品が顕になってゆく。 ――自己崩壊プログラム。 「なぜ!」 叫んだ。の腕がぼろりと落ちる。真っ赤なコードと、それに絡みついた青い配線。ああそうだ、彼女はやはり機械だったのだ。しかし何故、何故。 美しい人形人の姿を究極になぞった美しい願望、噫何故彼女の機能の中に、そんな残忍なものが含まれているのだ? ゾワリと背後で、真っ青な茂みの影があわ立った。はっと振り返った彼の眼に、一瞬その影は、老人の姿に見えた。その目玉が光る。 わたさぬ、わたさぬぞ、だれにも!だれにも!だれにも! 風に混じってそんな絶叫が聞こえた気がした。 ――伯。彼女の製作主に、はっと思い当たる。 その狂気の影。 「彼は!」 エプシロンの叫びはほとんど風にかき消された。 彼女が振り返って少しほほえむ。そのほほえみは、なぜだろう、ひどく切ない。 「彼はあなたになにを機能させたんです!あなたの至上命令は!?」 彼女がガシャリともグシャリともつかない音を立てて、軋み、撓む。有り得ない角度にねじ曲がった腰と首で、瞬きをしない目で彼女はエプシロンを確かに見た。その口元は笑んだままだ。空恐ろしい気がして、エプシロンは思わず息を詰める。エマージェンシィを鳴らすシグナル。 そこに未知のものがある。だからこそこんなにも、恐ろしい。 カタカタカタと、顎が笑うようになる。まるで壊れたカスタニェットだ。壷の中の怪物よりも、悲しくそして、恐ろしい。 「ワたし、ノ 至上命令、ハ」 ノイズ混じりの機械音声、僅かにあの優しい声が被さって聞こえた。ごうごうと風が吹き付け荒れ狂う。 エプシロンすら思わず腕で顔を覆ってたたねばならないくらい、雨風が強すぎる。その嵐の真ん中に彼女は壊れて立っている。その目玉が、真っ赤な玉のように色を変えて光った。 「ソれ ハ、」 (僕の世界を守って)(僕の世界僕の温室僕の僕の僕の僕の!たったひとつ残ったあの人との約束の場所、僕のすべて。)(そこで花を育て花を守り彼女の姿をなぞり彼女の姿を写しそのままそのままに時を止めて。) (時を止めて) (心すらも凍らせてその機械仕掛けの胸にしまって) (永遠を生きて) (えいえんにいきて) ガシャンとなにかたががはずれる音がした。 気の触れた風がオオ、オオ、と悲鳴をあげる。 彼女がボロリと、崩落する。 その首が笑い続けたように落ちる。 長いまつげの下のガラス細工の瞳が一瞬エプシロンをとらえる。 顔の半分の人工皮膚は破れてメタリックな鈍色の部品が丸見えだ。半分残った美しい顔。機械が露わになったほう の目玉から、まぁるい大きな水滴が溢れて風に千切れ飛んだ。 なみだ。 「―――伯、」 壊れた声が、小さく何か言った。エプシロンは、胸が焼け焦げるようだ、そう思った。 「えp、c」 すべての動きが、静止した。 バラバラと崩れた彼女が地に転がる。風がしんと止む。雨ももう、何も聞こえない。 燦々と白い光が、温室の砕けたガラス越しに降り注いでいた。エプシロンは呆然と、だったものを見た。ネジと合金とそれから。 そおっとガラスを踏んで近づくと、彼女の首を拾い上げた。暴走のために彼女を身内から破壊した熱が、まだくすぶっている。彼女の目玉の一部がそのために溶け出しでもしたんだろうか、あの一瞬、涙のように見えた透明な液体――ガラスが目玉をくるむように千切れ飛んだあの瞬間の形に固まっている。 ―――やはりこれは涙だ。 エプシロンはそっと指先でそれを拭うような動作をした。冷却され凝固しきったその先端はポロリと落ちた。手のひらに転がすと、いびつな宝石のようにきらめく。残った部品は目玉をくるんで動くことはなかったが、それでも彼はその透き通った液体を拭い続けた。優しく撫でるように。 美しい彼女の首を抱いて。 その切り口からはコードがいくつも地面に向かって垂れていた。黒いタールがぬとりとしたたる。 彼女の血、彼女の骨。 エプシロンは瞼を塞いだ。胸に押しつけるようにその頭を掻き抱く。そうでもしなければ、泣く、という行為を、理解してしまいそうだと思った。 |
お前は私のもの。私のもの。 |