温室に棲むのは人に非ず。 底に棲むのは美しい怪し、音の無い歌うたうもの。 |
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忌まわしいと思い、壊れてしまえばいいと思った。 もう二度と足を踏み入れることも、あの地に向かうことも、決してないだろうと思った。 しかしなぜ、自分の足があの屋敷へ、温室へ向かっているのか彼にはわからない。 噂を聞いた。小さな町の、小さな噂。 幽霊が消えた温室が、この真冬に見事なばらの盛り。なんとも美しい楽園のような様子。寂しい幽霊が去って、生き生きと蘇えったのだと言う。 なんてことだろう。あの機械人形こそ、咲き誇る花々の、木々の、守人であったはずなのに。 エプシロンは固くこわばった表情のまま、敷地内に足を踏み入れた。季節が一巡りもしていないのに、100年もここを訪れていないような気がした。他の人間の、痕跡が機械である彼にはそこここに窺えた。不思議な噂の、美しい温室を、覗きに来たのだろう。 エプシロンはそっと通いなれた道を進んだ。温室。入り口の蝶番は、あの時の風で弾け飛び。噫なんてことか。もうここまで来てよくわかる。ガラスを隔てた世界の、溢れるような緑。入り口をアーチのように覆う、蔦を潜った。 あのロボットがいなくなり、足を踏み入れるものもなく、朽ちるだけかと思われたあの温室が、いったいどういうことなのか、この寒い季節に返り咲き、見事な花の盛りだなど。 もう番人はいないというのに。誰が手入れをするわけでもないのに。 ばらの香りが、笑いさざめくようにエプシロンを迎える。明るい日差しが、天井の破れたガラスから射していた。 その光の中に、の微笑みを見た気がした。 蔦ばらの葉がエプシロンの腕に絡む。優しい手のひらでやんわり腕をとるように。 茂みをかき分けて彼は見上げた。 見事なばらの、色とりどり。深緑の中に、ぷかぷかと、星のように浮かんでいる。 促されるように、進むと、ばらの木々に囲まれて、真っ白な椅子が、ひとつ。脚の高さはばらばらで、きっと座ればギコギコ鳴るんだろう。緑の葉影を縫って、その椅子には桃色の日光が滴り落ちている。さあどうぞお茶にしましょう、すぐ耳元で、そんな声が聞こえた気がした。 なんて誤作動だ。彼は雨降りのような顔で、それでも微笑んだ。心があるなら、きっと心の底から。 「…!」 囁くように、名前を呼ぶ。世界で一番、美しい名前。 まだここにいる。解き放たれて。 エプシロンは耳を澄ませた。 破れた天井から入り込んだに違いない、小鳥の声がする。さわさわと外から吹き込む風に、梢が鳴る。光がサラサラと、蜂蜜色をして、揺れている。 他にはなにも、聞こえない。しかしそれでも彼は、天井から差し込む光に両腕を差し出して、じっとその静寂を聞いていた。 呼んでほしい、もう一度。世界で一番美しい、私の名前。同じ名を持つあなたに。優しい壊れかけたあの声音で。 彼は耳を澄ます。その痕跡を少しでも辿ろうとして。 きっといる。そこ、ここに。ばらのつぼみの下、葉っぱの裏、木々の梢、光の粒子の一粒一粒、あのクチナシの影。 幽霊、ゴースト。違う、違うね?そんなものじゃない。もっとなにか、違う、いきものだ。 、。ここに、いるね? エプシロンは微笑んでいる。まるで天気雨みたいな顔をして。そおっと。だってここは、泣きたくなるほどにやさしいのだもの。 そうして彼は、じっと、白い椅子の前で立ち尽くしている。壊れかけたあの声、優しいあの微笑が聞こえてはこないものかと。 |
『エプシロン』 |