ガヤガヤと、耳元で笑うような声に目を覚ました。
辺りは一面金色の麦畑で、青い風が吹いている。セドリックは、麦畑の中に仰向けにひっくり返っていた。金の穂を透かして見上げた真っ青な空。白い鳥が、泳ぐように高いところを滑ってゆく。ガヤガヤと麦畑が歌う。
(噫。)
彼は思う。
(帰ってきた。)
むっくりと上半身を起こすと、どこまでも広がる麦畑。黄金の波。風が鳴り、青と銀の風が、美しく輝きながら頭上で明滅する。遠くでポプラが、風に震えている。雲雀が飛ぶ。
「セド。」
麦穂の向こうで誰かが呼んだ。その声が微笑んでいることを彼は知っている。そうだ、彼女はいつも微笑んでいた。まるで怖ろしいものなど何もないというように。いつだってきれいなまま、眼差しを世界に注いで。
(そうだった、いつだっては笑っていた。)
その目で彼を見た。この空と同じ真っ青な目玉で。
「セド、」
「噫、…。」
すぐ彼の隣に、が立っていた。座ったままの彼を覗き込むようにして、目玉を細めている。少し見ない間に大人びたようだ。でもあどけないほほえみは変わらなくて、真っ白なワンピースが青い風に窓辺のカーテンのように優しく光を滲ませて揺れた。肩から落ちた髪が、同じように風に流れる。
「久しぶり。さあ、立って。」
その手が差し出される。白くて、細い。
だ。
セドリックはなぜだろう。どうしてかこんなにも安堵してしまって、少しその手を握り返す指先が震えた。の手はきっと冷たいだろう。体のどこかがそう告げる。しかしその予言に対して、握ったの手のひらに温度は感じられず、冷たくも泣ければ温かくもない。ふたりの体温は同じだった。
(空が青い。)
立ち上がり、とそのまま手を繋いだまま、セドリックは銀色に輝く太陽を見上げる。その隣で黄金にきらめく月も。真っ白なシャツを着た彼を、くすぐるように風が駆けていった。おかえり、麦畑が囁く。おかえり。子供たち。
彼はふと隣に立ち、麦畑の中佇むを見下ろす。なだらかな肩の曲線。麦の穂が風に揺れて、その度になぜか、彼女の姿が見えなくなるような気がして、怖ろしくなる。どうか、かくして、しまわないで。そうだ、幼い頃、まだ自分たちの背がこの麦と同じくらいであったあの頃。麦畑の金色の中を駆け回った頃。ふとの姿が穂の間に隠れると、どうしようもなく怖ろしかった。そのままもう、隠れたまま、現れてくれないのではないかと思って。
その頃のあの、空怖ろしいような心地を思い出してセドリックは強く手を握った。それにが、顔を上げる。その顔は自分の良く知る幼い少女の面影を残す、まさしくの顔だ。しかし、そう、彼はその顔を見たことがなかったことに気づく。
彼のその感情の動きを、敏感に捉えたらしいは、すこし憂うような目をして、首を横に振った。諦めと、ささやかな悲しみ。
「…セド。」
そのやわらかい声音。彼は聞いたことがない。
はっと何か、気づいてはいけないようなことに気づいてしまったようなそんな心地がした。もう後戻りはできないのだ。なにかがカタリと、落ち込んでしまったのだ。それだけはよくわかる。
「セド。」
が呼ぶ。16の。あのまま、そのままに優しく時が流れていたならば、セドリックの隣に変わらずあったはずのもの。しかし、これは、これは。
セドリックが泣き出しそうに顔を歪めてそのまま下を向いた。これはいったいなんなのだろう。やさしいゆめ?ざんこくなまぼろし?はいなくなってしまった。11歳の最後の夏だ。一緒にホグワーツに行くのを楽しみにしてた。もういない。いなくなった。だのにが困ったように、今彼の隣で微笑んでいる。
「セド、」
は呼ぶ。君の名前を呼びたい。とてもとても、優しい声で。そう思う。私の一生分の優しさや慈しみやそういった諸々の感情を全てこめて。その目がそう告げて、その口が彼を呼ぶ。
セドリックは顔を上げすらしなかった。わずかに持ち上げられた口端が、には青ざめた耳たぶの向こうに見えていた。
「セドリック。」
「僕は死んだのか?」
どうしようもなくて、は少し笑う。
「そうだね。」
肯定の言葉はあまりにポツリと孤立している。やさしくなりたい。君に、君だけに。
「じゃあ君は…?」
セドリックがわずかに顔をあげて、を見た。はそっと首を振る。知っているでしょう?音もなく唇が紡ぐ。その白い指先。それが冷たく、こわばっていた時を、彼はどうしようもなく覚えていた。
「じゃあなぜ、」
なぜ成長している?その言葉にこめられたわずかな期待を、は握り潰さねばならなかった。しかしそれと同時に、それとは違う希望を、彼に与えることがおそらく彼女には、できる。
「あなたは私を忘れなかった。だからね、私いつもあなたの中で生きていた。一緒に生きてたのよ、セド。だから私はあなたと同じに時を刻んで、そしてここにいる。」
ありがとう、忘れないでいてくれて。が微笑む。
ある日忽然と、麦畑で姿を消した。きっときっと生きてると信じたかった。今頃どうしているだろう、生きているならどうなっているだろう。日常にふと入り込む、ぽかんと開いた心の隙間で、彼は成長した少女を思った。そのままの君がここにいる。ここはいつかの、それでも美しいあの麦畑。
「君は死んでたのか。」
「そうね。」
「僕は死んだんだね?」
「ええ。」
「だから僕らここにいるの?」
雲雀が高く、鳴きながら飛んでゆく。私たちも飛べるのよ、とそっとが告げる。私たちとても自由なの。だから飛べるのよ。それに対してセドリックは、ひとつぶ涙を落とすとどうしようもなくて笑った。走っていこう。
「走っていこう、」
あの時みたいに。金の麦穂の合間を縫って。今度こそ手を繋いだまま。はぐれたりしないように。どこまでもだ。青い風の吹く金色の麦畑を、銀の光を追いかけて。きっと。どこまでだって。
「いこう、」
繋いだ手に、ちいさな明かりがともる。ゆこう、ゆこう。子供たち。
風が鳴る。稲穂が揺れて、歌う。ゆこう。手に手をとって、子供たちが駆けてゆく。どこへなんて知らないよ。ただ自由だ。解き放たれて。悲しみは置いてゆこう。どちらともなくそう思い、その顔に笑顔が浮かぶ。さようなら、子供たち。さようなら、さようなら、さようなら…。麦畑が歌う。麦の向こうに君はいる。見えないだけで、隠れている。
そこには君の空、君の世界がある。金と青の縁取りの向こうに。
君よこの海を渡れ。麦穂の海を渡れ。








(汝黄金の海を渡れ)
20080909