ピーターは暖炉の前でもうずっと、ずっと小さく丸くなっていた。誰にも見つからないように。
夕食時の談話室に人はほとんどいなくて、ソファにゆったり座って本をめくるとおからクッキーダイエットをしているアニエスと、それから他に食堂に行きそびれた下級生が2,3人、慌てた様子で仕度をしている、それくらいだ。
ピーターはどうしても読み終わりたい本があるわけでも、ましてやダイエットをしているわけでもなかったし(その必要があるとはよく言われたし自分でもひそかにそうは思うのだけれど。)、食堂に行きそびれたわけでもなかった。
ただ今日という一日は彼にはとても長く、苦痛で、それでいてふだんと代わり映えのないすばらしいものだったのだ。いつだってピーターに一日は長くそれでいて短くて、楽しくて不愉快で友人はすばらしくて自分はみじめだ。大抵友人に話を合わせたり悪戯を手伝ったり心の底から楽しかったりして忘れているが、時々こんな風に、ひどく体中が空っぽな心地になる時がある。それでいて心臓の辺りが重くシクシクと痛む。そしてそんな風に陰鬱な自分が酷く嫌で、惨めさが倍増するような気がして。そしてシリウスの、ジェームズの、リーマスの隣が億劫で恐ろしくて酷く嫌になる。そんな考えがまた恐ろしくて、ピーターは彼らにすら見つからないように黙って小さく丸くなるのだ。(そしてそれに気づかない友人たちにきがついて毎回悲しくなる。)(リーマスはほんの少し、曖昧な微笑で彼を見るけれど。)
下級生たちの騒々しいはしゃぎ声はあっという間に出て行って、アニエスはに一通り空腹を訴えながらクッキーを(三日分くらい)むさぼると寝る!と叫んで部屋へ戻っていった。途端にしんと静まり返って、パチパチと薪の爆ぜる音だけ高い天井に響いた。はアニエスの話を聞いていた時からすでに無心にページをめくり続けている。(つまりは聞いていないのかもしれない。アニエスももちろんそんなことはわかっているだろうに。)
この沈黙も静けさも自分が望んだもののはずなのに、完璧な一人ぼっちではないという空間に、なんだかピーターは耐えられないような、それでいて縋りたいような心地がしていた。ひどくかなしかったのだ。最初から、こうして誰かに伝えたかっただけなのかもしれないね、ピーター自身気がつかないだけで。
「ねぇ、。」
ピーターがそおっと言った。聞いてるかな、いないかな、って少しドキドキしながら、聞いてればいいなとも聞いてなければいいなとも思った。は答えなかったけれど、僅かに分厚い本をめくる手が遅くなる。殺人的なスピードでめくられる本が、ゆったりと進むのをうずくまったまま横目で見て、ああ聞いてるんだ、とピーターは少し緊張した。
このもどかしさを、情けなさを惨めさを、(それから内にある醜さをさ。)どうやって伝えればいいかわからなかった。
「…どうして胸が痛いのかな。」
酷く曖昧な物言いになってしまった。はっきりとジェームズのように、自らの内側を難解かつ格好の良い(と少なくともピーターは思う。)言葉で表してみたかった。でもそれは、彼には難しすぎたし聊か恥ずかしかったので。
「ぼくは、ぼくは悲しいって思うんだ。情けないなって思うんだ。思ってるのはぼくの頭で、でも、この辺が痛いんだ。ええと、心臓がそう思ってるんじゃないんだ。なのにどうしてこんなに痛いの、かな?…自分でも何が言いたいのかよくわからないんだ。でも、ぼくは、不思議なんだ。なんで痛いのかな。こんなの嫌だって、ぼくは、思うよ。」
途切れ途切れに浮かんだ言葉をつなげたら、よくわからなくなってしまった。惨めさも悲しみも、言葉にはなってくれなかった。ひょっとしたら、隠したかったのかもしれない。ピーター自身が恐れている。友人への醜いと世間一般に考えられるであろう感情を、露呈するのが。彼はいつだって何にだって臆病だった。自分でも嫌になるくらいに。
そんなピーターをわかっているのかいないのか、スマートな思考を持っていた彼女に、いったいどこまで通じたのだろう。もしかしたら、言葉になりきらなかった部分もすべて、本の字を読むように彼女には見えていたかもしれない。
「そりゃあもちろん、」
は本から顔も上げずにただそう言った。自信たっぷりというわけでも軽くでもなく、本を朗読するようなはっきりとした声で自然な響きだった。
「あなたが人間だからよ。」
至極当然、といった風に言葉は終わる。ピーターは予想もしない答えに数秒沈黙した。少し、スケールが大きすぎた。
「…どうして?」
ピーターにはよくわからない。
はそこでやっと顔を上げた。髪が一房なだらかな肩から滑り落ちる。目玉が不思議な色を湛えてペタペタと光っていた。
「じゃあ逆で考えたら簡単だわ。壊れたのは左腕。痛いと思うのは頭脳なのに痛いのは左腕。左腕に思考力はない。でも痛いのは患部。そう思わせるのは頭脳。」
朗々とした節回しで、一気にそういうとは少し首を傾げた。なにか間違ってる?そう訊かれた気がして、ピーターは返事に詰まる。それでもやっぱりわからないので、小さく「どういうこと?」と囁いた。
それには呆れも怒りもしないで少し考えを巡らせるように目玉を動かした。
「頭脳が痛むわけじゃない、痛いのは壊れたところ。頭脳は痛みを自覚させることで患部の異常を知らせるの。
ここが壊れた。痛むぞ。ここが壊れたって。痛みがなければ、怪我をしたって気がつかないでしょう?」
一旦言葉を区切ると、ピーターを見る。ピーターは最後の言葉は簡単にわかったので、頷いた。が頷き返して、ページを一枚めくる。
「そして、悲しいとき壊れるのはここ。」
彼女は左手の親指で優雅に自分の胸を指してみせた。ここ。悲しいときここでなにかが壊れるのだ、と彼女は言った。
それはあんまりうつくしい動作で、なんでかな、ピーターは泣きそうな気がした。やっぱり見透かされている。でも彼女はそれを馬鹿にしていない。それがわかって酷く恥ずかしくなったのだ。
「…なにが?」
だからピーターはそおっと尋ねた。
うっすらと笑みを浮かべては本に目を落とす。そのまま独り言のように小さく呟いた。
「機械の躰に頭脳を入れたら、それは人間かしら?
生身の躰に機械の頭脳を入れたら、それは人間かしら?
生身の躰に頭脳を入れた人間はやっぱり人間なのかしら?
人間とまったく同じ配列でできた機械は人間ではないのかしら?
人間である最低限の制限はなに?
人間の定義とはなに?
頭脳と躰のシンクロ率が重要なのだわ、きっとね。
躰と頭脳が離れていても、互いが繋がってひとつならそれが人間だわ。どちらかが機械でもどちらも機械でもどちらも生身でもそれは同じこと。躰が痛むと頭脳が悲しむ。頭脳が痛むと躰が悲しむ。
悲しい寂しい苦しい悔しい嬉しい楽しい憎い嫌い好き愛してる大嫌いどれも生きてるから思うことね、人間だから思うのよね。
どの感情も身体に密接に関係してる。生きているから、人間だから。仕方がないのよ、人間だもの。
頭脳で感じたことを躯も同じに共有してる。その逆もおんなじ。
ふたつでひとつだけれど、ひとつひとつは大切な独立した機関だわ。
ひとつはひとつでしかないけれど、でもふたつでひとつなのよ。」
「…よく分からないよ。」
ピーターが泣き出しそうなまま少し笑った。ちっともわからないよ、。ピーターが笑う。
「それでいいのよ。」
再び顔を上げてほほ笑んだ彼女の顔は、酷く優しかった。
悲しい君に
(だからつまりね、君はそのままでいいんじゃないかなって私は思うんだ。)(誰よりとても酷くとことん人間らしかった、そうそれだけの話だもの。)
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