僕はどんどん、人間から離れてゆく。満月に限ったことではない。僕に混入したあの忌まわしい血は、年月の流れと共に僕と混じり、同化し、やがて完全に僕のものとなる。誰かに手をつないでいて欲しかった。優しくして欲しくて、でも優しくなんてして欲しくはなかった。
手をつないでいて欲しかった。
時々でいい。君がふと思い出して、僕を振り返り。そしてたまにでいいんだ。けむくじゃらで冷たいこの手をつないで欲しかった。この世界に、君の、君たちの住む世界に繋ぎ止めていてほしかったのだ。たいてい忘れていてくれて構わない、ただ、ただどうしようもなく僕が人から遠ざかる、その時その瞬間――それは満月の晩とは限らない、暖炉の薪がはぜる時、誰もいない真夜中の談話室、誰かが僕に気づかずに通り過ぎてく図書館。わがままだね。でもそんな時、僕は世界から切り離されてゆくように感じる。自分がとても遠くなり――あの世とこの世があるならきっとあちらの方へ、引っ張られてしまいそうになるのだ。
そう言うときに、誰かにそばにいて欲しい。それができれば、君ならばと僕は思う。
僕は、僕はね、君がある日僕をこちらに繋ぎ止めてくれたことがあって、きっと君は自分がそんなことしたなんて知らないんだろうけど本当にうれしかった。でもうれしい、と言う言葉は少し嫌いだな。僕のその時の涙が出るような安堵は、記号を綴ったくらいで表せるようなものではないから。
夕焼けだった。黒い影がサーカスの檻みたい、僕を絡めとるように伸びている。真っ赤な夕焼けで、夏だった。ローブは暑いので脱いでいる。半袖の白いシャツに西日が染みて、僕の影が薄っぺら、長く伸びる。図書館に人はいない。誰かと誰かが囁きながら通り過ぎる。僕には気づかずに。
派手なピンクの入道雲が、むくむくどこまで膨張し続けていた。なんだかまるで、空を侵食するような調子。耳の痛いような静寂。僕はあちらへぐいぐい腕を引く力を感じていた。周りには誰もいない。黒い影が僕を捕らえようと手を伸ばす。
ああ、誰か!誰でもいい、誰でもいいのだ。そのときはそう。思った。誰か誰か、このままでは僕は連れ去られてしまう。血の色をした入道雲と、真っ赤な空のその向こう。沈まない月の支配する世界。ひとごろしの流転の王が、治める地の底。ああ底に属するものの血が、僕にも混じっていることはわかっている。
けれど嫌だ、嫌だ。僕は子供だ。子供なのだ。父と母と祖父がいて、ああそうだ、なんの変わりもない家に産まれたんだよ。母はマグルで、だけれどそんなの両親には関係なかった。魔法使いの恋人を、家につれて帰ってきた娘にお祖父さんはこう言った。おや、まあ、懐かしいもんだ、祖母さんがそうだったよ。父さんとお祖父さんはすぐ仲良くなった。そうして僕が生まれた。僕は子供だ。彼らのこども。この学校にいる子供たち、そのどれとも変わらない。ただの子供だ!
(ルーピン?ああなんだか大人しくって暗くっているのかいないのかわからないな。少し変わってるよあいつは。人嫌いなんだ。)(なんだかきれいで儚げで、近寄りがたいイメージよねえ。相手にされてない、ってかんじ。)(話したことないし、わかんないや。)(え?そんなやついた?)(知ってる知ってる。あいつすごく目立つよな。)
僕はこども、ただの、子供。ああどうか。なのにどうして手を引くの、どうして僕を呼び、招くの。ただの子供。なんの価値もない。どうか、連れて、いかないで。
「あれ、ルーピン。」
は僕より3つ年上の上級生だった。物静かで、いつも小さく笑っている。グリフィンドールらしからぬ、静けさの人。君はいったいその出現が、僕を冥界から掬いあげたことなど知りもしないのだ。
「どうしたの?夕食がもう始まっている。」
「あ…、」
「顔色が良くない。医務室に行った方がいいね。…ほら、手を出して。」
の手が僕の手をとり、影から切り離し光のほうへ。
だから僕は、その手がそれから手放せないのだ。
白くて、優しい、人間の手。非力なその手が呼ぶのは救いだとか優しさだとか喜びだとか。ああ。どうして僕はそんな風にいかなかったのだろう。僕が呼ぶのは絶望と悲しみ、そして狂気と血と破滅。そればかりだ。
美しい君の手。緑の光に浮かぶ君の白い顔。
「君は見かけるたびに青褪めているね。」
と言って笑う君。
どうかこの手を、離さないで。それが無理ならその手のひらごと、置いて行ってよ。その白い手のひらさえあれば、僕はこちらにしがみついていられるような気がしてた。
君は優しい。とても優しい。上級生で、同じ寮で、それでいて少し気があった。騒がしいのが苦手なところや、図書室にひきこもるところ。きっとにはそれだけなのだ。わかってた。それでも僕は、その手に縋らずいられなかった。ルーピン、と呼ぶ深い声。一人でうずくまっていると、時折彼女は偶然に訪れた。は大丈夫か、とは決して聞かない。大丈夫かといわれたら、大丈夫と答えるしかないのを君はよくよく知っている。
「ほら、大分よくなった。」
微笑んでは、僕の手のひらにキャンディーやチョコレートを残していってしまう。いつまでもここにいて。その光を見せてよ。
卑しい獣の僕には言えない。
ほっとけないよ、と頭を撫でてくれる。優しい君。身を焦がすほどに羨ましいよ。憎くて憎くてそして手放すことはできない。幼子にするように、手を引いてくれるが好きだ。それは決して、恋ではない。が好き。もまた、僕が好きだろう。親が子を愛するように。姉が弟を、兄が妹を、春が冬を愛する具合に。
だから。だから僕のことが好き、そう言うならお願いだ、手を握っていてほしい。それだけだ、それだけでいいんだよ。僕のことが好きだというんなら、君は僕のこの獣の手を握ってくれなきゃならない。
「、。」
「なぁに?」
「ごめんね、また少し気分が悪くって、」
かまわないよと微笑む。青い衣の少女に見える。
「いつまでもここにいて、」
囁いた言葉は小さすぎて届かない。
ああ言葉にすらできないこの僕を許して。
だからどうかただ手をつないでいて。
|