「リーマス、」
 女が言う。長い前髪の隙間から覗く黒目がちな目玉。
「リーマス。」
 それは男の名だ。
 夜の空は真っ青で、星が出ている。ひときわ輝くあの星の名を知っているか?どこかで虫が鳴き出した。ベガは真珠の色をしている。
「君は美しいね、」
 女の目は、じっと半歩前を歩く男を見つめている。
 紺色の空は美しく深い調子で夜を深めていく。子供たちは眠った。猫も蝌蚪も眠っている。今地球の裏側で太陽は中天に昇った。子供たちが川へ釣りに行こうと話し合っている。
「ユーアビュウティフル(君は美しい)。夜空に浮かぶ青ざめた望月のようだ。」
 男の横顔は薄っすらと白い。どこか遠いところを見ているような調子の男の目は、。静かに足元に伏せられている。白い花が咲いていた。
 しかしそれを見ているのかいないのかは男以外には分からないことだ。風が少しきつい。畦道を通る風は湿っている。ノロノロと歩くふたりは礼拝堂にいるように静かで密やかだった。
 伏せられたままの男の視線に、女は微笑んで頷く。
「月が恐ろしいのだね。」
 初めて男が顔を上げた。ゆっくりとだ。
 男の目は相変わらずどこか遠くを見るようだ。ぽっかりと開いた目。焦げた金色をしている。睫の先で光がわななき、男の唇が少し薄っすらと開く。
 女は黙ってそれを制す。
 男は黙っている。
「…わかるよ、」
 女の目は再びほとんど長い前髪の向こうに隠れる。
「…とてもよくわかる。」
 女は二度繰り返した。
 男は分かるはずない、と思っていた。
 女は分かるはずないと思っているな、と思っていて、男は分かるはずないと思っているなとおもっているな、と思っていた。
 三十日月は青く、そっぽを向いている。
「リーマス。」
 静かな声で女が言う。
 男は少し女のほうへ振り返る。くすんだ金の髪が少し、男の顔を隠す。彼はもう随分悲しみの中にいる。
 真っ青な夜だ。
「虫が鳴き出した。(君は美しい、とても。とても。)」
 本当だ、と男は今気づいたように呟き、そしてまたのろのろと足を動かした。くたびれてほつれかけたローブの襟元に、女はその眼差しを注いでいる。
 二人の歩く草むらでかすかに虫が鳴いている。
 コオロギかな、と女は言う。男は静かに、鈴虫だろうと答えた。ひまわりが二人の周りを群舞している。二人は動かないひまわりの間を縫って、葬式の参列者の幽霊のように音を立てずに歩いた。
 空には星が出ている。
 女が囁いた。
「分かるよ、リーマス。」
 男の目から一筋涙が落ちる。
 女は青い月を見上げていた。
 月は欠けている。男は目を少し伏せて泣く。虫が鳴き出した。
 プロキオンは青いビー玉に似ている。
 今度産まれるなら月のない星にしようと、男は思っている。
 魂のままオールトの雲を渡って、そこにもこの女はいるだろうか、いてくれるのだろうかと、男は少し、女を振り返る。
、」
 それは女の名だ。
。帰ろう、風が冷たくなってきた。」
 女は少し微笑んで、そのまま男を半歩追い越し、泳ぐように夜を割って歩いてゆく。やはりあの雲間を泳ぐときも、女は美しいだろうか。
 今真綿のような雲に包まれて、丸くなりつつある星のことを考える。そこに月は出るだろうか。そこに魚は鳥は獣は人間は住めるだろうか。
「…そこに君はいるだろうか。」
「ん?」
 小さな呟きに女が振り返る。
 なんでもない、と返しながら、男はゆっくりと歩く。夜の底を歩く森の中の大きな大きな獣のように。本当にそうだったならば、噫こんなにも悠々と自由だ。
 項垂れた夜中のひまわりたちは、うらみがましく月に頭を垂れる。男と同じ。ただ彼は、昼日向が恋しいわけでも、あの中天の恒星が恋しいわけでもなかった。
 女が歩く。君は美しい。
 そしていつか、いつかは星の海を渡って。この星を逃れる。いつか。いつか。

20080822