(新月)

 おうい。そおっと暗い帰り道で呟いてみてももちろん返事はありません。吐いた息は白くて寒そうに凍えている。なんだかぽっかり、静かな夜です。しみじみとして光はなくて、星の明かりばかりちらちら光ります。こういう晩は、なぜかな。早く家に帰りたくなる。
 空を見上げればぽっかりなにもない黒々とした海がいくつか。どこにも見えない、それだけであの銀のお皿はそれでも確かにお空に浮かんでいるのだね。白猫とすれ違って僕は少し会釈をする。
 こんな真っ暗な淋しい平和な夜には、みんな眠ってしまったりなんてするものかしら。実はみぃんなこっそり布団の中で起きていて、テレパシー、飛ばし合うのではないかしらって考える。
 月のない夜は徒然と、どうしてもどうでもいい取り留めのないことばかり考えてしまって、いけない。金木犀の匂い辿って、フラフラと寄り道する夕暮れとは別に、僕はせっせか家路を急ぎます。
 星だけのこんな晩には、噫きっと僕はもうこれからずっと夜の海みたく平らで穏やかな心でいようと思う。誰にでも優しくあろうと思う。早く家に帰って小さな声でとありふれた内緒話しようと思う。
 こんな夜はトンネルのようです。トンネル抜けて朝が来るのが惜しいほど、静かで平和で、たいくつな晩です。





(既朔)

 の左手の人差し指爪の先みたいに、白い形が夜に浮かんでいる。昨日は何もなかったのに、にょっきりそこに現れて。風が寒いね。空気が冷たいね。きっと鼻の頭が赤くなっていると思うから、マフラーに顔を埋めてみるけれど、そうすると耳が飛び出て、それで亀みたいに首をすぼめるとなんだか不恰好。おかしいねってポケットに突っ込んだ手が小さな穴を突き抜けてしまって、しまった飴玉を転がして来たみたい。
 振り返ったらてん、てん、てん。赤、白、ピンク、黄緑、黄金、水色、透明。飴玉が一列に並んだ惑星みたい。あるいは僕が、飴玉のおかあさんで、はぐれないようにしっかりついてきているみたい。もしくは隣にがいれば、立派なヘンゼルとグレーテルになれたかしら。
 来た道を戻るのは苦ではない。ひとつひとつ飴玉拾って白いハンカチに乗せながら、こうやってひとうひとつ、思い出全部取りこぼさずに過去へ帰れたら僕は何をするのかしらと考える。
 18個目を拾い終わって、19個目に手を伸ばしたら、視界にもう一本、小さな白い手が入ってきて僕はぱちくりと顔をあげる。小さな女の子、花柄のハンカチにひとつひとつ僕と同じように飴玉拾い集めて、そうして僕と同じように目をぱちくりさせている。暗いからお互い気がつかなかったね、飴玉しか見ていなかったもの、と少し笑って、それから僕たちは拾った飴玉を見せ合いっこする。ミスタ、もう落としちゃだめよ。って女の子は笑って僕に飴玉を返してくれた。僕は穴の開いていないほうのポッケに入っていたコインの包み紙のチョコレートを女の子にあげる。宝石みたいにその子、ハンカチに包んで持って帰った。
 そうして僕の白いハンカチの中には、落っことして転がして、だめにしてしまった飴玉がたくさん。宝石みたいだと思って、やっぱりぼくもそのまま持って帰ってきたのだけど、捨てるにはなんだかあまりに惜しいよ。ねえ、どうしようか。





(三日月)

 ロックン・ロールが聴きたいな、と言ったら変な顔をされる。別に僕はクラシックが趣味なわけでもはないし、ジャズは好んで聴くけれど、ロックン・ロールだって聴く。いっとき親しい友人たちが、マグルの音楽に大層凝って、そればかり聴いていたっけ。あげくTシャツまで揃いで買って、ライブにまで行ってしまったっけな。
 そういう具合に大抵僕は、なにをするにつれ古い友達のことを思い出す。
 そうしてその後にはとても不細工であろう僕の人生を思い返してなんだかちょっぴり誰にともなく曖昧に微笑んでみたくなり、そしてその綻びを幾つも見つける。どうやって繕おうかと考えて、同じようにほつれ、見つけただろうと一緒に、今夜は熱い紅茶にちょっぴりウィスキーかラムでも垂らして少し昔の話をしようかと思う。上等なウィスキーが確か、キッチンの床下にあったような気がする。父親が昔、ときどき取り出しておんなじように紅茶に垂らしてはちびりちびりやっていたものな。まるで何か、特別なあまい飲み物のように見えたっけなということを思い出す。紅茶にウィスキー、溶かした濃い琥珀の色は、多分古い昔を連れてくる色なのだ。僕の場合はそこに砂糖か蜂蜜か、どちらかも一緒に溶かさなけりゃいけない。
 上等な茶葉を使おう。僅かな贅沢を思うとすこしほっこりとした気分になる。クッキーをお土産に買って寄ろうか、それとも奮発してチョコレートケーキにしようか。跳ね回って踊りだしたいような気もするし、暖炉の前でゆったり腰掛けて、そのままとろけるように眠ってしまいたい気もする。そもそも僕はだいたいどっちつかず。
 何年も開いていないアルバム、とそこに写っている人たちを思う。とふたりだけで取り出して眺めるにはあんまりいろいろありすぎた。でもふたりで写ったのならいいかな、どうかしら。
 そう考え出すとすっかりロックン・ロールのことは忘れてしまった。そう言えばあのミュージシャン、なんて言ったかな。





(半月)

 気がつけばムクムクと膨らんでいやがる。しあわせそうに日々超えてゆく銀のあれを見るのは憂鬱なので、僕はなるべく下を見て歩こうと思う。このあたりから昼間でも、月っていうのは存在を主張し出すから気に食わない。
 昨日は僕が、の大事にしていたまんまるなお皿を割ってしまって喧嘩をした。これを喧嘩っていうのかわからないけれど、なんとなく気まずいままなので、似たようなものじゃないかなと思う。だって仕方がないじゃないか。お皿って割れてしまうものだ。謝って、そしていいよと言ってもらったけれど、なんだかやっぱり、まだ彼女は怒っている気がする。ほんとうにごめんね、と言って僕が帰ったあとで、割れたお皿の破片摘み上げてため息吐いてるが目に浮かぶみたい。
 怪我なんてしなかったろうな。僕は申し訳ない気分になって、今日もなんだかんだでそれでもやっぱりの家へ行ってみようという気になる。
 半分に欠けた月、見ていると、なんだか今にも突然あいつがムクムク膨らんでまん丸になるんじゃないかと思うときがある。でも今は、割れたお皿みてしゅんとしおれているが浮かぶ。(…は月もまん丸なほうがいいだろうか。)一瞬でもそういうことを考えて僕はとても憂鬱になり、そういう時はたまに、訂正、良くあるのだけれど、そういう時僕は、僕の中に流れる血を全部その辺の溝にでも流してしまいたくなる。そうして空っぽになった僕の体には、そうだな、なめらかに澄んだ沢の水でも満たしてみようか。そうしたら随分かきれいにマシになれるだろうし、誰も傷つけなくて済むかもしれない。
 魔法使いの通る道は、車なんて誰かがうっかり利き手を上げて、ナイトバス呼んでしまわない限り通りはしないけれど、それでもやっぱり、いくらか人とすれ違う。だんだん僕は、それすら億劫になってくる。そうなると、いけない。自分でもわかっているのだけど、いけない。そうなってしまえば、僕はいてもたってもいられずトランクひとつに収まる荷物をまとめて、うんと田舎に引っ越してしまいたくなる。煉瓦の街にさようならして、うんと誰もいない田舎に引っ越したくなる。日がな一日日向でぼんやり、山の向こうに思いを馳せて。
 そこまで考えたところでの家の前に差し掛かり、通り過ぎそうになった僕は足を止める。出窓のところに昨日のお皿が、半分にかけた形のまま、うまい具合に赤い屋根の家と林檎の木の模様のところだけ残して最初からそういうオブジェだったみたいにきれいに飾られていて、その隣のミルク瓶にはコスモスが挿してある。
 僕はすっかり憂鬱な気分を忘れて、お土産を忘れたことを後悔しながら少しうきうきと階段を昇る。





(十三日月)

 僕はなるべく急ぎ足で、まるで空の様子に思いを馳せるほど時間と心に余裕はありませんというポーズをとって歩く。外套の襟はきっちり閉めて(なんだかまるで毛むくじゃらな首や腕が見えないようにするみたいにね!)、帽子を深く被って(そうまるで耳が見えでもしないかって怖がるふうにさ!)、マフラーもしっかりとして(今にも口が裂けるんじゃないか牙が出るんじゃないかって隠すみたいに!)、転がるように冷たい木枯らしの中歩く。
 もう夜は静かではない。ざわざわアレが満ちるときを待ち望む声がほら。耳を澄まさなくたってあちら、こちらで聞こえてくるよ。
 もうとっぷり日も暮れたっていうのに青い光で地面はぼんやり明るいよ。もう日差しがあったかい秋も昼間も過ぎたのに、誰かがウクレレ弾いている。メロディーは騒がしくなくて、いっそ優しくて僕は困る。怒れなくて困る。そして仕方がないので、そうやって僕を困らせたことに怒ることにする。
 実際僕は、仕事をまたいつ首になるだろうか、いつ僕の大層な秘密がばれるだろうかとヒヤヒヤしているし、大分いらついてもいる。糖分の摂取が足りないわけではなく、いっそ余分に採っていて、そもそも僕はそういう病気のわけではない。あまくないカカオうんたらパーセントのチョコレートなんてものはまったくもってけしからん!と蛇寮のあの少年の言い方を真似ての前で拳を振り上げて演説したら、彼女は目を丸くしたあと、ココアを入れてくれた。砂糖たっぷりの甘いやつだ。僕しか飲めない代物だと彼女は目を半分だけ開いて口元を引きつらせながら、それをごくごく飲み干す僕を見ていた。





(小望月)

 ほとんど満月の夜です。僕は機嫌が悪い。だからなるべく誰にも会わないでいたいけれど明日になったら誰とも会えないし、とも会わないから、僕はカーテンを引いたまま、暖炉の炎越しにと少しだけくだらないおしゃべりをする。フルーパウダー使ったおしゃべりって、あんまり好きじゃないのよ、っては言うけれど、僕はそんなに嫌いではない。だっていつ僕が君の白い首筋をガブリとやりたくなっても炎を噛んで口を火傷するだけだから。
 部屋のカーテンは光を通さないやつ。ランプの明かりはゆらゆら。大気があの衛星の支配する力に満ちているのがわかるので、僕はあまり物を考えないようにしている。なにか考え出すとぜんぶ、どうしようもない結末に向かおうとするので、僕自身それに止めをさすことはできない。だから、人と話すのが一番いい。本を読むのは苛々するのでちっとも文字が頭に入ってこないし、ベッドの中には空気と空全体が騒がしくっておちおち眠っていられやしない。だから何も考えないで、人と話すのが一番いい。
 カーテンはしっかり閉まっているのに、なんどもカーテン越しに窓の外を気にする僕はもうおそらくどうしようもないのだろうね。しかたがないから眠ってしまおう。夢なんてみたくないな。なんにもみたくないな。おやすみ、と暖炉の向こうのに言って、おやすみなさい、そう返事をもらう。それはなんだか切符のようだ。それだけ握り締めたらほんとうに夢も見ないで眠れるかしら。おやすみ





(満月)

 月、ピカピカ、銀の目、丸い丸い。僕、月、夜は明るい。騒ぐ、浮かれる。僕は絶望しているけれどとても楽しい気分。矛盾。僕の。ゆめのなかのかたち?白銀。赤い牝牛が飛び越えたのはなんだっけ。なんだっけ、なんだっけ…。兎の喉元に喰らいつけ。さわいでいる。誰か。コポコポと音がしている。何の音だっけな。僕はしょっちゅう忘れてしまおうと思うけど、は泣くかな、ざわざわ。ぺちゃくちゃ。うるさいな、静かにしてくれよ。やっぱり泣くだろうか、泣いてくれないかな、泣いてほしいくせに。ほらさっさとどっかへ行けよ、僕は眠たい、眠たいんだったら!月だよ。知ってるよ。噫ひどいなんてひどいんだろう!まったくひどい!ぜつぼうだ!蝦蟇潰れてしまったろうな。流れ星。げらげら笑うなよ。月、ぎらぎら、銀の目、まるい、丸い。





(十六夜)

 眠くて眠くてだるいから何も考えたくないよ、って言って僕は心の中で駄々をこねながら、大丈夫、と言って大人の顔で笑った。そうしたら。の差し出した紅茶が無糖で参った。あのう、と言ったら「お疲れですね、ルーピンさん。」と言われたので「はい。」としぶしぶ頷いた。
 お土産にチョコを両手いっぱい貰う。持ちきれなくて困るなあと思うけれど口には出さないでおく。口いっぱい頬張りながらまだ明るい月の下をてくてくと歩いて帰る。家へ帰って歯磨きをする頃にはきれいさっぱりとチョコの山はなくなっているので、僕は紅茶に蜂蜜をたっぷり溶かして飲み干した後、ゆっくりゆっくり、白い布団の上に広がっている眠りの中に沈んでゆく。
 おやすみ。





(立待月)

 みんなが寝言いってる夜は君の名前だけ呼ぶよ。鼻歌うたって、へいへへいへい、屋根の上猫と月と並ぶよ。
 路地裏で犬は見上げてる、パンケーキムーン落ちてはこないかしらってじっと待ってる。黒鶫は破れた羽で飛んでる。僕のズボンのポッケには接ぎがしてある。チョコレートはいかが。夜は長いよ。眠ってしまうにはもったいない夜だよ。
 目を上に、するとほら、金平糖の星空だよ。こっそり君と僕の分くらい、取ってきたってきっとばれやしないかもね。毛布から出なけりゃいけないよ。羊と戯れるにはまだ早いだろう。街の水銀灯が燃え尽きるまで、もう少し待ってね。
 僕は君はまだ起きてるかな寝てるかなって考えながら、噫でも叩き起こしにいこうと考えて家を出てきたんだった。ごめんね、ってあんまりそう思ってないけど一応呟いてみるよ。ごめんね、でも目を覚ましてよ。おうい。
 誰もいない道を真夜中歩くのは楽しくていけないな。猫はずっとついてくる。月はまだずいぶん円に近い形をしてるので、道路に僕の影はくっきり。影なんかできないくらい速いスピードで、走り出したいけど、マグルのように僕には車がないし箒も得意じゃないから仕方がないな。それができたら叩き起こしたを後ろに乗っけて、夜の海までひとっ走りなんだけど。夜の海はきっとどこまでも、うらうら静かに続いているよ。その上を裸足であるけたらいいだろうな。少し濡れたみたく月光で光る道路。夜の海のつもりで歩くよ。いちに、いちに、行進のリズム。
 さあすてきな話しをしよう。僕は口笛吹いて待っているよ。猫は隣で歌ってくれるよ。ふんふふ、ふふふん。僕は音痴なの恥ずかしいからやっぱり口笛吹いておこう。
 見上げた窓の先がの部屋。おうい。もう眠ってしまったかな。月も寝静まったいい夜だよ。





(居待月)

 だんだんと夜が静かに穏やかな丸い円を描くようになると、僕はゆっくり、たとえば夜中だってと並んで散歩をすることができた。
 街の明かりを遠くに置いて、静かな川辺をのんびり歩くことだってできた。虫の声がするね、とが言えば僕は本当だ、と返すことができたし、がもし月が怖ろしいのだね、となにもかも見透かすように言ったって僕は静かに首を横に振ることができた。わかるはずがないと思いながらそれでも一緒にいることができた。わかるよ、というの言葉に肯定を返さずそれでも寄り添っていることができた。僕たちは夜の中目覚めている。
 月が欠けてゆく。欠けた分僕の内側にあの膨れた月に吸い取られていた人間のパーツが少しずつ戻ってくる。
 僕はゆっくりと人間に回帰する。
 完璧に帰ることはできないけれど、少しずつ歩み寄ってゆける気がしている。それが錯覚だと言うことにはどうせ誰もが最初から気づいている。






(寝待月)

 道ですれ違った親子連れのうち子供のほうが、空を指差してお月さん痩せちゃった!と深刻そうな声を出した。ざまあみろだ!と僕は思い、同時にとても情けない気分になる。
 こういう時馬鹿騒ぎを一緒になってしてくれる同性の友人というものがとっくのとうにいないので、僕はゆっくりと石畳を歩きながら、セブルス元気だろうかと考えた。
 ワイン片手に突然邪魔をしにいったら、きっと心底嫌な顔をされるだろうなと思うと笑えた。きっと相手にしてもらえないかもしれないし、あの彼が酔いつぶれて馬鹿騒ぎなんて、ジェームズ辺りなら想像したくもない!と叫ぶところだろう。そもそも会いに行こうにも、今はまだホグワーツでは授業の真っ最中で、すなわち教授であるかれも城の中。まだぼんやり明るい夜に、遠くに見える山に目を凝らす。あの夢のような城はいったいどの辺りにあるのだろう。あの頂の辺りかな、と目を凝らしたらちょうどの家の前だったので、おや、また来てしまったなあなんて嘯きながら、僕はベルを鳴らす。






(更待月)

 今夜は曇り空で月がないから、ピクニックに行こうよ。そう言ったらは変な顔をしてそれでもいいよって笑ってくれた。だので今夜はピクニックだよ。夜の野原に空色のシート広げて、が作ったホットサンドと、赤いポットに入った蜂蜜入りの紅茶はちょっぴりラムが入ってる。いい夜だね。いい夜だよ。ユニコーンもくるかもしれないよ。月のない夜だもの、おばけがピクニックにやってくるかもしれないよ。
 あったかそうなコート着て、マフラーを頑丈に何重にも首に巻いてそれでもが寒そうにしながらピクニックしている。もちろん僕が誘ったからだけれど少しおかしくて、素直にそう言ったらとても怒られて参った。
 参ったなあ、って言うとは笑ったので、これでいいんだなとひとつ学習する。夜の野原は空気が澄んで、ああこれで空が晴れて新月ならきっと完璧。僕は月のない夜の野原に住む美しい生物でありたかった。そこまで考えて考えるのをやめる。
 こんな良い夜に、みんな寝言いってるのだろうな。もったいないね。そうだね。紅茶が冷める前に飲んでしまわないとね。
 僕は新月の晩に住む野原の美しい住人でありたかった。
 眠たい?寒いよ。帰る?もうちょっと。もうちょっとだけ。
 美しい生き物に生まれ変わったら、僕はまず一番になにをするだろう。けれど僕がぼくのまま、そんな美しい生物に生まれ変わることはできないのだと、徹頭徹尾理解してしまっている僕は、僕が僕のまま穏やかに日々を重ねるためには、月のない惑星へ逃れるしかないことも知ってる。
 手袋を忘れてたよ。どうりで手が冷たいんだ。
 なんでだか泣き出したいような気分で、ピクニックは楽しい。





(半月)

 良く似た夜をよくよく知ってる。でもね、ぜんぜん違うことも知ってるから僕は暖炉の前で口笛を吹いている。窓の外を黒猫が通り過ぎた。緑の目をしている。風が騒ぐ夜だ。その猫とは顔なじみなので、僕は窓を開け放ってどうぞと言った。にゃあと鳴いてようこそ黒猫。僕はあいにく猫語が達者ではないので、彼女の名前を知らない。彼女であるということは、なんとなく、第六感的に理解しているけれどひょっとしたら彼なのかもしれない。
 僕は彼女を招きいれた窓を閉じる。風が冷たい。冷たい空気が床にどどうと流れこんだせいで足先が凍えている。安楽椅子の上で膝を抱えて、彼女を足と胸板の間にご案内する。ゆらゆら揺れてそのまま眠ってしまったら風邪をひいてしまうな。でもすっかり彼女が眠る体制なので僕は一晩中起きていようかそれとも観念して眠ってしまおうかと考えながら、眠ってしまった。
 その晩夢を見た。
 まるで10年ぶりに会うような調子で、に出会った。
 久しぶり、元気だった、と穏やかな声音でが尋ねて僕はうんと答えた。色々な話をして、日向で一日おしゃべりをした。は儚い笑い方をするので僕はざわざわと胸が騒ぐ。青白い空には化石の半月。どこからともなくがシャボン玉持ってきて、それを吹いて飛ばした。目の前の庭をシリウスとジェームズが金と銀の輪を転がしながら通り過ぎた。リリーがよく焼けたチーズケーキを持ってきて、そしてやっぱり空いっぱいにシャボン玉を吹いた。ピーターがシャボンを追っかけて飛んでいってしまって、ただただの微笑が儚い。
 変な夢。
 そんな夢見たものだから、妙に早く目が覚めて、朝起きたら彼女はお腹がすいて窓をひっかいていて、僕は彼女を外に出してやって、今日の予定を確認した。まだ朝早い日差しは少し冷たくやわらかだ。はもう起きているかな。こんな早くに行っては迷惑だろうか。考えながらもう出かける準備をして気がついたら外を歩いてたんだ。それでさっき朝一番で開いていたお店でシャボン玉とバゲットを買って今ここに来たわけだけど、紅茶とジャムと卵をごちそうしてくれる?そうしたらほら、立派な朝食になると思うんだけど。





(二十六日月)

 あんまり静かだと耳が痛くなるので、僕は布団の中で丸くなって眠る。おやすみ、って言ったのはだれだっけ。静かな夜です。紫色に優しく錆びた、抱きしめたいようなさみしさです。うつらうつら眠りの間に浮かびながら、僕は青い花を思う。
 もうじき、あと三日もすれば月のない夜が来る。トンネルの夜がくる。僕はそこを潜り抜けて、そして。そして。
 繰り返すサイクルのことはなるべく考えないように。
 いつか誰かがあのお月様、粉々に砕いて太陽あたりに捨ててきてくれることだけ願ってる。






(晦)

 つごもり、という響きはやさしい。こうやって暗くなった後、部屋のなかにふたりでいるのってなんだかそういう言葉の気配がする。あったかでそして静かで閉ざされている。お母さんと、子供とか。おじいさんと、おばあさんとか。小さな兄弟、素敵な夫婦。あるいは人殺しとろくでなし。それからあるいは、嘘吐きと神父。君と僕。そういうなにか、親しい優しいふたりのための、ような気がするのは僕の願望かな。月のない夜が来る。ほとんど欠けた月の、最後の眼差しは僕にも優しいね。
 窓の外で歌ってる猫なら気にしなくてもいいよ。僕の馴染みの黒猫だから。歌うたうのが好きなんだ。僕にはよく意味はわからないんだけど、猫の間じゃきっと評判なんだと思う。
 真冬の晦はあったかだね。月明かりの少ない夜闇はとても優しいのに、さらにそれを同じ色の糸でやわらかくかがって天蓋作るような、ひどく今夜の表現は抽象的で困った。困ったなあ、言葉にできないことってたくさんあって、そういうものほど大事で困る。
 トンネルの夜が来るね。真っ暗な優しい夜だよ。真っ暗はこわくない。僕らはそれをとてもよく知っていたし、あの強烈な月明かりこそとても残酷なことを知っている。
 もう風が随分冷たいけれど窓を明けてみるのもいいかもしれない。そうしたら部屋に夜が流れ込んできて、きっと猫も入ってくるかも。明かりも消して暖炉の光だけ。風に吹かれて飛んでいくのもいいだろう。猫に合わせては歌って、そうしたら僕は口笛吹くよ。だれかさんの寝言にあわせてハミングをしよう。眠ってしまうのにちょうど良い夜。暖炉の前で眠るのがたぶんきっとお似合い。右にの肩にの頭を乗っけよう。それでの膝に猫を乗せて毛布を上から二人分かけよう。とろとろ燃える火を眺めて、いつの間にか眠ってしまって月のない朝。きっとそれがいいねって話しているそばからほら、もう目蓋がくっつきそう。あかあか、燃える火は眺めていると精神が凪いでいくのが目に見えるようだ。猫は君の膝でもう眠った。だんだんの頭がやんわり重くなる。
 眠っていいよ。肩、貸してあげる。



081121