暖炉の火がとろとろと燃えている。夜は静かで月はなく、星ばかりが騒がしくお喋り、瞬く。部屋の中は優しい砂色をしている。壁にかけられたタペストリーは。もう随分古びてしまった。噫、彼の祖母があれを一つ一つの欠片丁寧に縫い合わせて作っていたのを思い出す。リーマスは暖炉の前で安楽椅子に座って、けれどもそれをゆらゆら揺らしてはいなかった。彼は俯いたまま顔を覆い、手の甲ばかりが炎を映して赤い色。
 リーマスの髪、綺麗だ。は口には出さず、その人に語りかける。彼のくすんだ金の髪には、ちらほら銀の雪が混じる。まだ若いのにね。少し微笑むと随分胸のところが切なくなって困った。赤い炎の色、映して彼の細い髪の先だけ、黄金が解けたみたいな色している。そうしているリーマスを背中から眺めて初めては、すぼめた背中の形も、その首筋の骨も、顔を隠した親指の先っちょもぜんぶ自分のものであればいいのにと思った。色の褪せたセーターに、よろよろのズボン、雨の日には靴下が溺れる革靴。
 リーマスはあたたかい室内にもかかわらず、凍えたように小さく震える息を吐く。レースのカーテンが揺れる。生成りの白い、レース編みのやつだ。その窓の外には紺碧の夜だ。魚も鳥も、真空の中泳ぎまわっているいるだろう、夜。夜だよ。真っ暗な青い夜。真空の空、広がる。
 でもね、何も心配はいらないよ。七つ並んだ柄杓の星なら、ほら、そのポケットの中に。の目の中に、秘められた囁きは、顔を上げないリーマスには聞こえない。その目の中にも星がある。気づかれない声は、ただリーマスの頭上に、光の粒になって降り積むだけだ。
 リーマスはまだ黙っている。時折その背が震え、彼の口から短く嗚咽が漏れた。
 泣かないでなんて言えないな。は少し困った風にはにかむ。その涙の落ちた砂漠から花が咲くのだと知っていた。優しくなんてなれないな。微笑をうかべたまま、彼女は今、とても優しい顔、している。
「リーマス、」
 だからただは名前を呼んだ。子守唄歌うジプシーの、ギターのイントロみたいな声で。リーマスは顔を上げなかった。一度だけ鼻をすする音がした。沈黙は砂のように、そこらに積もった。あったかな白い砂。祈りと願いの分だけ降り積んで、埋もれた分だけ多分、くたびれて優しくなれる。
 私達ずいぶん昔から一緒にいたねえ。が笑う。君がそのあんまり大きい悲しみ背負う前も、後も、ずいぶん長いこと。昔よくいっしょに手をつないで歩いたっけね。並んで帰り道、急いだっけ。ポケットの宝物覗き込んで、ふふふと小さく笑ったっけね。ポケットには星があったね。花も、鳥も、木も、魚も、それから月のない空と砂漠もあったっけ。今でも覗けば、変わらずあるのでしょう?不思議に静かな微笑のままで、は少し俯く。
 白い靴履いている、自分の足先が見える。春色と灰色の縞々のタイツはいた棒みたいな足。カーテンと同じ色したブラウスとスカート、腰から下の白いエプロン。エプロンには黄色いポケットふたつついてる。はそっと両手をポケットに入れた。パチンと暖炉で薪が爆ぜる。あったかい流れが、小さな炎から立ち昇り、広くはない部屋の中をゆったり循環する。
 揺らめく火の影を見ていると、後悔も悪くはないと思うとは思う。ずいぶんたくさん、後悔してきた気もするけれど、いちいち思い出して眺めるには随分くだらない。ねえ、リーマス、そう思える日が来るかな。花の向こうに笑う君と話す日はくるかな。二人分の影法師、橙の床に伸びてる。随分私達、おおきくなったのだね。入り口の柱の、背比べの痕を見下ろす度、は世界中の誰よりもリーマスに優しくあれた。手のひらで影絵つくって、毛布の中でよく遊んだね?
 ホタリとリーマスの目玉から、床に染みが落ちる。それはには、自分の頭上から雨のように幾つもふってきたように感じる。乾いた砂に、芽が出るよ。空に向かってぐいぐい伸びて、小さな花が咲くのよ。花は風を呼んで、鳥を運ぶ。そうだ、彼らはずいぶん、大きくなった。きっとそれに比例して、内なる空だって悲しみだって優しさだって、どれもが大きく広くなる。いろんな話をしたね。忘れてしまったかな、リーマス。忘れたことすらいとおしめるかい。
 は、扉のところから彼のほうへ一歩、踏み出した、ポケットの中で、右の指先に何かが小さくコツリと触れた。それをそのまま、手のひらで握り締めてこれは太陽だとは思う。リーマスがどうして泣いているのか、は良く知っていた。彼は許されたいと泣いているのだ。彼は何故だか、自分自身を嫌ってあきらめてやまなくて、幼い頃に背負い込んでしまったあんまり大きな悲しみに、やりきれなくて時折圧し潰されるようにして泣く。自分の中の残酷で、凶暴で、無慈悲な、そういった部分を、今すぐその心臓後と引きずり出して握り潰してしまいたいんだって音のない悲鳴を上げながら。
 君はひとつも悪くないんだぜ。少なくともその原因については。はニヤリ、少し古い友人の真似して口端持ち上げてみる。もちろんそれをリーマスは見なかった。許してって泣く声。許してくださいって願う君。多分みんな、みんなそういうふうに泣きながら生まれてついて、死んでゆくのだと思う。誰もがどこかで、それだけ願っているし、でもたいていはそんなこと忘れている。だってそういうものって思ったよりも見えにくくって忘れがちなものなのだ。ただリーマスのそれは満月といっしょにとても解りやすくって極端な形で顕れてしまうから。だからリーマスは、たいていそれを、忘れない。忘れがちで、かまわないのに。そう、だってまた、許してください優しくあれない自分を、って時々思い出したように誰かに祈って生きていた。神様にじゃない。みんながいつも、誰か、何かに祈ってる。優しい誰か、恋しい人、道端のパン売り、知らない老婆、顔も知らない曽祖父。誰もが生きながらに死んでゆく。はもう一度、歩を進めた。
 木の葉が一枚、枝から離れて夜へ漕ぎ出した。もちろん外は、星明りの真っ暗だから、誰にも知られず、ひそりと。いつか君の悲しみが、切ない気持ち抱きしめて泣きそうに笑いながら振り返ることのできる過去になることを願っている。すべての日々に愛されながら、君が何もかも皆一切合財を享受できる日を祈っている。まだ見ぬ誰かと手を繋いで、ポケットの中の星、覗いて微笑むことのできる日を待っている。
 自分のためにきみのさいわいを、全ての命と太陽と空と海と星と(月と)木と鳥と風と花と君と、まだ見ぬ命と、それら全部に願えることをうれしく思う。
 言葉のないひとり言は、の胸のうちで続く。絵だけの本と同じだね。その目を開いてよく見なくちゃ、誰にも読むことはできない。そうして開いた人の分だけ、物語がある。その人の内側の空、映したやさしいやさしい無声音の物語が。
「リーマス、君に、あげる。」
 ポケットから抜き出した手のひらを、まだ顔を覆って俯いたままのリーマスの背中から、頭の上へは伸ばした。
「私はちょっと、でかけるけれど、」
君のしあわせ願っているよと言ったらきっと、リーマスは自分にはそんな資格ないのだと泣くから、は黙っている。ゆっくりその右手を、開いた。どうぞしあわせ恐れないでねって。
「またね。」
 開いた右手から、小さな太陽、床に転がり落ちた。コロンと乾いた音が鳴って、リーマスがはっと顔を上げる。泣き腫らした目で、暖炉の火に小さく光るガラス玉、見る。なんだかとても、見覚えがあった。いつか海辺で、そう、うんと小さい頃、自分が拾ってにあげたやつだと彼は唐突に理解する。どこにでも似た物、あるだろうけれどこれはあのときのガラス玉に違いないのだと奇妙な確信がある。
 薪が爆ぜて、少し火が弱くなった。誰もいない部屋で、リーマスは左の手のひらに、小さな太陽拾い上げて少し微笑んだ。いつもと、つないだほうの手。みぎてはひだりてに、左手は右手に。どうぞ君がまたいつかすべての日々に愛されて生まれますように。
 くちびるの上で囁かれた祈りは多分誰も知らない。

20090110