がらんどうの空にぽっかり不気味に月が昇った。今日はひどく大きく膨らんでおり、その光は強く、何者かを照らすためというよりは消し去ってしまうためのものに見える。
男は部屋の中にじっとうずくまって待っている。
ああほとんど満月に見える月。しかしそれでは彼には足りないのだった。あと、あと少し。
口端から漏れた響きはいくつにも重なって低く、この世のものではないように思われた。
この男、身内に地獄を飼っているのだ。
震える指先で、疲れてくたびれた、美しい顔を真一文字に裂いた傷跡をなぞる。ゆっくりゆっくりと押し開くように。そうして長くふるえるかすかな安堵のため息を吐く。
私はまだこの傷が憎い。だからまだ大丈夫だ。
少し右の口端を持ち上げてみた男の中に、しかしもうひとつの念が浮かびあがる。
はて、大丈夫とはいったいなにが大丈夫なものか。明日になって数刻もしてみろ、お前はいったい何になるんだ?それは果たして、大丈夫の範疇に収まることなのか?
何度も繰り返してきた問いだ。男は苦く笑うと、膝を抱えなおした。ばかばかしい。呪文を呟くも彼の中に住むあやかしを祓うことはできない。気休めだよ、所詮。
暗く朽ちかけた部屋の空気は、錆びたように軋んでいる。四角く切り取られた窓から、真っ青に透き通った光が、破れかけた床に落ちている。その青い長方形から逃れるように、男は部屋の隅にぴったりと背をつけ、膝を抱えている。じりじりと床面を這う光に少しでも触れる度、焦げるような痛みを感じる。
明日は満月だ。
その言葉がどれだけの絶望を孕んでいるのか、なぜ誰も知らないのだろう。どうして誰も、僕らが絵に描いた化け物で腹を空かせた怪物だってことに気づかないのだろう。逃げろよ、逃げろ。急げ、急がなきゃ急がなきゃ食べてしまうよ。
「まるいつきがのぼる」
ふと女の声がした。
シェイクスピアを朗唱するような調子の、深いよく響く声をしている。
「お前の胸に銀の銃弾を撃ちこもう。そうすれば薔薇色の傷が裂くだろう。醜いお前、美しく飾ろう。」
銀の髪、銀の目、青白く透き通った細長い手足。女が月の四角の中に立っていた。月明かりの当たったところから、突然生えでもしたように、唐突な登場の仕方だった。その銀の目に色はない。まるで無感情に、ただ淡々とした獰猛さだけがぎらついている。
その指先で男の左胸、そうちょうど心臓の辺りを指して女は薄く開いた瞳で男を見た。
対する男は彼女の登場に、あまり驚いたりはしていないようだった。むしろ当たり前のように、淡々と受け止めていると見るべきだ。
「やあ。」
やあ、と男は告げた。
「やあ」
元気だったかい、とも久しぶり、ともよく来たね、とも繋がらなかった。ただ淡々と、やあ、と無感動に吐き出した。面倒臭そうに、その目はぼんやり、自分の細くて骨ばっている色褪せた指先を見ていた。
どちらもしばらく黙っている。
しんとした静寂。月だけじりじりと、膨らんで焦げる。
「じき満月だ。」
男がぽつんと呟いた。ほとんどひとりごとだった。
「君は隠れていなくていいのかい。」
そう尋ねた彼の目は、満月のような焦げた蜂蜜の色をしている。その底に潜む金。
君の喉元に食らいつこう。引き裂きへし折りその血を啜ろう。そうして相打ちだ。美しい君、化け物の君よ、それでも君は美しいままだろう。
「逃れることも隠れることもあたわないよ、知っていよう?」
女がきゅうっと銀の目玉を細めて呻いた。
「ああ知っているとも。」
怪物に逃げ場はない。さあこの断崖から叩き落せよ。男と女は同じような笑みを浮かべて窓の外へ目をやる。忌々しくて仕方がないのだ。自らのおぞましさを映し出し凶暴さを助長し残酷性を讃えるあの真ん丸い衛星が。
男は血と肉と骨とそれから悲鳴とを求めている。女は血と憂いと嘆きと静けさを求めている。ふたりは化け物で怪物で満月が憎かった。まだ辛うじて人である部分を残していたから。
(だまされた!だまされた!)
「満月なんてろくなもんじゃない。」
そう呟いたのはどちらだ?相槌うったのは?
どちらでも大して変わらないだろう。
そうして、もちろん、と続けて締めくくられた言葉は苦く丸まって落ちる。あの月を砕き落とせよ、ダーリン。 |