くちなしの丘を昇る。
あまいにおいが空気に紛れて、ひそやかな秘密に似た角砂糖の味。長い坂を昇りながら、白い花々を見る。花の向こうの空は霞みがかって、青にはミルクが混入されたに違いないと思う。
くちなしのかおり。
白い花。光が照らす木々の間を、男はゆっくりと歩きながら少女のことを考えていた。
記憶に連なる古い校舎の柱の影に、はにかんだ微笑と一緒に見え隠れする。少女。今も変わらずそのままで、君はずいぶん背中の方に。
どこからか、リーマス、とわらうような囁きが、かつて少年であった男を呼ぶ。
それを聞きながら、ああ僕はきっとさびしい薄紫色をした、優しい気持ちでいるのだと、人事のようにそう思う。今も少女は胸のなか、白く残った花の先。あまいかおりが、今もこうして花になって、大気に溶けて、彼をつつむ。
男はずいぶん疲れていたが、それでも今朝は、この平和な景色のように体が軽い。少年であった頃のような、身の軽さだ。
自らの中に時を積もらせて、男はずいぶん自分は錆びついてしまったのだと思っている。そしてその、錆びついたような男の
優しい は、それでもまだ機能していて、時が経つほどにますます掠れてさびしく、やわらかになった。それにも気づかないまま、男はもうずいぶんと長い間、優しくなることをゆめみている。まだ辛うじて青年とも呼べる歳であるのに、彼はずいぶん、多くを弔いすぎている。
柔らかい空気が、包むように満ちていた。
頭の中では古いギターが二本、ほろほろと鳴っていたが、閉じた口から音は生まれず、彼はただ歩くだけだ。
丘の上には若い白樺の木。
鳥が飛んで風がそよいで、草原に落ちる光のまだら模様。印象派の光だね。ひとつひとつが優しくて、あんまりちらちら、目に入っていけないな。
金剛石をばらまいたような明るさに目を眇めながら、男はついに坂を昇りきり、たったいっぽん、くちなしの中に生える白樺の根元に辿りついた。その木の周りだけ、自然の芝生が広がって、白や黄色の小さな花のとりどり。夢でないならお伽噺のような場所。実際そこはうつくしい夢で、彼はその扉をくぐってここへとやってきたのだった。
ついにここへやってきたのだと、自らが昇ってきた長い坂道を見、男は水色のため息をそっと吐く。
見渡す限りに深い緑がずっと広がっていて、白い花が、あちらにもこちらにも、見え隠れ。ため息は大気にまぎれてすぐに消えてしまって、空を構成する一部になった。男のくすんだ金の髪が、さらさらと風に揺れ、くたびれた顔の上にやわらかな微笑が加わる。
まだ若いのに年寄りのような顔をして。友人にはよく言われること。
たぶん目の下にあるうっすらとしたしわのせいと服装がずいぶんくたびれているせいだろう。男はそう解釈しているのだけれど、その目があんまり、やさしくて悲しげでこどくだからそう言われるのに、ずいぶん長いこと気づかずにいる。彼の抱える半恒久的な孤独は、あまりにも彼の血肉に馴染み、そのため彼は、それを背負っていることを時折忘れた。
さやさやと梢がなる。緑の葉が光に透けて、彼の白い頬に反射している。
そっと目蓋を伏せて、彼は白樺の幹に背中を預けると、少女をその裏側に思い起こす。目蓋の裏、彼女はいつもわらってばかりだ。悲しそうな顔も怒った顔も、みんな大切で忘れられないはずなのに、こうして銀の箱から取り出して並べれば、大事にしまってあったのは笑顔ばかり。時はやはり流れ、注意してきたけれどそれでもやはり、幾つも忘れてしまっている。
しかたがないね。
誰にともなく男は呟いて、苦笑を浮かべた。季節をくぐりぬけるには面影はあんまり多すぎて、だからぜったいに、忘れられないものだけ連れてきた。
風に木の葉がこすれる音が、雨音のように男には聞こえている。雨降りの朝に、馴染みの店の窓際で紅茶を飲みながら聞くそれと同種の遠まわしなやさしさを彼はそこに聴く。そうしていつもの席で、ちょっと昔を懐かしむみたく、彼は目をつむる。
ひしめくような光の中を、歩むような日々だったな。たいせつだからいえなかったことはたくさんあって、男はそれすらもたいせつに思う。言わなくてよかった。それがたぶん正解。
あの頃は、そのことが苦く、喉につかえて彼を苦しめた。言えないことがくるしくて、言わないことが難しかった。
しかし今になって彼はすべて、すべてを理解した。時は廻る、ゆるやかに螺旋を描いて。そうしてときおり、思いもかけず繋がって。すべては夢の中。時は月の揺りかご。優しい、かなしい。
彼はわらった。木漏れ日に似た光の中を歩むような日々の上で。
言葉にしたらきっとすぐに壊れてもう戻ることはなかっただろうと、今ならわかる。
緑越しの日光は穏やかにやわらかい。白い鳥が飛ぶ。いつか嗅いだにおい。夏の日差しは白く、どうしてかな、こんなにも静か。坂道の向こうに、広がる草原を眺めて、その向こうに続く森を見る。あの森に一角獣は棲むだろうか、そこに虹はかかるだろうか。
きっと。きっとね。
男はやはり少し微笑し、幹を挟んで裏側に意識を向ける。
やっと、やっとだった。やっとこのときが来た。
泣きたくなるほど幸福だった。待ち望んだ時が来た。螺旋を描く光の階段を昇って。彼の髪を風がなでて通る。花のかおり。はなびらが舞う、あまいにおい。目蓋の裏の少女。やっと。
花の向こうに君が見えたら何を話すかなんて考えるまでもなく、もう何年も前からすでに決められていた。
草を踏む軽い足音。彼女は僕を見つける。もうずいぶん前に、彼女自身から聞いた順番を思い浮かべながら男は目蓋を開いた。開く花がほほえむ。雲の影が丘を横切る。風の吹く長い坂の途中で。白く光る空を見、やわらかく揺れる梢をゆっくりと眺めてから、彼は何気ない風を装って後ろへ視線を肩越しに移した。
ああほら。
美しい少女が目を丸くして、彼を見ている。そのことをみなくとも知っていた。目蓋の裏の面影と少しも変わらないままの少女が。
あかるい日差しと花の中。最初の言葉はもうすでに知ってる。
「…やあ。」
――彼は驚いたように少し目を丸くしてそれからわらうのよ。
「こんにちは、。」
――どうしてか私の名前を知っているの、不思議でしょう?
不思議なものか。驚いたまま固まってしまった少女に微笑みかけながら、彼はこころの中、うたう。
知っているよ、もうずっとずっと前から。
男のくたびれた若草色のローブが、風にやわらかくなびいていた。光が優しく踊る。小さな声は優しく、さいわいを歌うように。少女の髪にくちなしの花びら、男がそっと指を伸ばす。
くちなしの丘の上で。
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