02

 くちなしの丘を昇る。
 あまいにおいが風に乗って、鼻の先をくすぐる。少女は緩やかな長い坂を昇りながら、途切れそうになる呼吸を整えようと足を止め、頭上の花々を見た。花の向こうの空はあわい乳色じみた青。母親の首飾りの石と同じ色だ。
 くちなしのかおり。白い花。
 少女は歩いていた。小さな胸を押さえ、震えそうになる足を引きずって。
 先ほどから呼吸はあがりっぱなしで、もうずいぶんとつかれていた。
 少女の白すぎる頬は、今は上気して杏のようだ。彼女は歩きながら、その丘の上に立つ一本の木だけを見ていた。

 あそこまで、たどりつかなくては。
 胸がかすかに痛む。こんななだらかな坂で。自嘲するように少女は不似合いな微笑を浮かべ、それでもよろよろと歩き出した。あそこまで、行かなくてはならない。理由はない。ただ、行かなくてはと風が、花が、少女に囁く。
 その風がふわりと、少女の髪の毛をくぐっていった。その涼しさにほうと目を細め、彼女は再び、歩き出す。肩より少しながい、ふわふわやわらかな髪は暗いブラウン。瞳の色も同じ。もっと明るい色ならよかったのにね、と誰にともなく呟き、少女は歩みを進める。
 彼女の友人の髪は、燃える炎のような色をしている。とてもきれいだ。よろめきながら坂を昇る少女の頭の上を、ワンピースの胸元にさされた刺繍によく似た小鳥が二羽、戯れながら飛んでゆく。囀りは少女の耳にも届き、彼女は視線を空に向けた。
 まぶしいほどの白。
 鳥だ、と思った後で、ふいに足が軽くなったように感じて、少女はまたゆっくりと坂をのぼり始めた。

 錆びついたような彼女の心臓は、それでもまだ機能していて、コトコトと不規則ではあるけれど鳴り続けている。
 もっとちゃんとした核を持って生まれればよかったと、どうしようもないことをそれでもやはり少女は漠然といつでも考えている。望むような心臓を持って生まれればよかった。そうすれば、両親が泣くこともこうして坂をのぼることにも苦労することはないのだろう。
 丘の上で緑の梢が揺れる。おいでと揺れる。今行くよ、心の中でつぶやいて、心はどこにあるのだろう。とりとめもなく思う。胸が痛い。

 少女はなおも歩く。鳥が飛んで風がそよいで、草原に落ちる光のまだら模様。ミレーか、そうでないならセザンヌだ。印象派の光だね。あんまり細かくてやさしくて、目についていけない。
 少女はついに坂を昇りきり、白樺の幹に寄りかかるように片手をついた。小鳥の上から胸を抑えて、少女は深く深く息を吐く。小さな心臓は熱く震えており、少女の膝も、わずかに震えていた。
 木漏れ日が、そっと少女の目蓋のうえに落ちる。木の下に吹く風はさらりと乾いていて、彼女の細い首筋を撫でてゆく。白樺の幹についた手のひらを丸くして、いまだ整わない呼吸に背を丸めて、少女はわらった。寄せられた眉ばかりがくるしげで、あとはこの夏の光が少女の形を取ったかのようにうつくしかった。

 少女の心臓は、もうほとんどだいたい壊れている。
 だから少女の両親は、少女が魔女である証の手紙が、11歳の誕生日、運ばれてきたのに驚き、喜んだ。医術がだめでも魔法なら。儚い望みにかけた期待は重すぎた。そうして今も、少女の心臓は壊れたまま。いつネジが切れるとも、プツリと弾けて飛ぶともしれない。
 せめて自分が愛されない子供であったならと少女はよく思うのだ。子供を愛さない親だったなら、とも。そうすればきっと、父も母も、泣かずに済んだろうに、と。
 そんなこと考えるのはおよしと、梢が囁く。それでも少女は、もうずいぶんと長い間、誰にも悲しまれずに消えることをゆめみている。

 ようやく落ち着いてきた呼吸で、背筋をのばし自らが昇ってきた長い坂道を見、少女は水色のため息をそっと吐く。大気にまぎれてそれはすぐに消えてしまって、空を構成する一部になった。少女の髪が揺れて、まだ手のひらの下、小鳥のさらに内側でコトリコトリと風車が回る。
 遠くまで見渡して、一面の花と緑。少女はほっと息を吐く。ああ世界はこんなにも美しい。
 私が眺める今も。私がいなくなった後も。
 この白樺の木も時を重ねれば自然と大きく空間を広げて、優しい木影をつくるだろう。
 そう考える度、少女はいつでも消えてしまいたかった。
 誰も私のこと見ないで、知らないと言って欲しい。
 そればかりを願っている。なのに言葉にしたらすべてはきっと簡単に壊れて、終わってしまう嘘だ。だから彼女は口を閉じた。そしてわらって、開く花のようにただ嘘をついた。
 誰にも見られず知られなかったら、誰にも忘れられないのに。忘れられることが怖かった。彼女が消えても、世界が廻ること、わかっていたから。そうしていつか、忘れられて。風に髪を任せて少女は少し寒くもないのに肩をすくめた。私が生きていたことも、忘れてしまう。
 空は遠い。くちなしの花の先で、光が遊ぶ。それを美しいと、少女は思う。あるいは花だとか木だとか風だとか星だとか。そんなものに生まれればよかった、とも。
 もう大分静まった心臓の上に、まだ少女はこぶしを当てていた。胸に手をやるのはもうほとんど彼女の癖になっていて、それが祈るように他人から見えることを彼女は知らない。

 風がわらう。風に木の葉がこすれる音が、潮騒のように少女には聞こえた。誰にも知られず訪れた海で、耳を澄ましたときに似ている。あのまま自分の身体が端から潮風に解けて、海の一部になれるのではないかと彼女は思ったものだ。
 心は穏やかに凪いでいる。見上げた先で日光が蜜色に揺れた。その金色は、ある少年の髪を少女に連想させる。
 いつも図書室の奥、連なる本棚の影にひっそりと佇んでいる少年。伏せた目蓋の先に図書室の光は溜まって細かくさざめいた。彼は穏やかに静かで、いつも困ったように笑う。一人でいるときの横顔は遠く、秘密のにおいがする。彼女がそっと近づくと、振り返りもせず少年は本を閉じる。そうしてやっと振り返り、優しく微笑むのだ。
 少女は少年に、その美しい顔に真一文字に走る傷跡について、訊ねたりはしなかったし、少年も少女がたくさん隠れて飲み干している薬のことを見ても、なにも訊かなかった。多分お互いが、訊ねられて返ってくる答えが嘘だと、知っているのだ。
 落ち着いたヴィオラのような声で、少年は話をした。その声で嘘をつかれたくないと、少女はぼんやりと思う。囁くような声で、そっと少女の名を呼んで。あの緑の若葉の先に、縢られた光のように、繊細な美しい形をしてる彼。

 ふとなんともなしに、自分が手をついたままの白樺の向こうが気になった。光がわらう。ぐるりと少女は、隠れんぼのように幹の後ろへ顔を回して、目を丸くした。
 男がひとり、立っている。
 その髪は、まさに少女がつい今し方思い起こしていた少年とそっくりな色をして、さらさらと風に流れて、それは光の粒子をあたりに控え目に散らしていた。
 横顔のシルエット、きれいな鼻の形。灰色がかった若草色のローブはずいぶんくたびれて、帆のように風をはらんでたっぷりと広がっている。船だ。
 そうして男は、やわらかい日差しをうけて空を眺めていた。わずかに微笑んだ口端の形。睫の先の金色。
 ふいに男が、振り返った。
 琥珀色の目に緑が写り込んできれい。白樺の下で、男はまるでこの場のためにしつらえられたモニュメントのよう。白い頬に緑の光を乗せた男は、少女を見て驚いたように少し目を丸くして、それから思わず、時すらも止めるようにわらった。そんな微笑を見たことがなくて、少女は息をのむ。木漏れ日のなかわらう男は、本当に美しい。少しさびしげな眉と、優しいともせつないともとれる眼差しと。

「…やあ。」

 深い深い響きだった。千年も前から響いてくるような、少し掠れた声。眠る前に、お話を読んで欲しくなる声だと、少女はどこか遠くで思ったまま、男を見つめていた。男がまばたきをする。時の流れはずいぶんとスロウ。男の背に虹が見えた。

「こんにちは、。」
 くちなしが咲いている。はなびらが舞って、少女の髪を滑る。光が優しく踊る。小さな声は優しく、さいわいを歌うように。男は少し笑い、それを節くれだった手で掬いとった。その指先の乾いた冷たさに、少女ははっとしてあわてる。男がまだ青年と呼んでも差し支えのない齢であることに気づいたのだ。
 男は、ああ、とひとり納得したようにわずかに首を傾げ、「花がついてた。」とわらった。真正面からその琥珀の瞳に見つめられて少女は慌てた。理知的な眼差しは、なぜだろうさびしげだ。こんなにも美しい人なのに。

「違うんです、」
 少女の声はやはり小鳥のようで、かすかにあたり一面の花と似た気配が混じる。慌てている自分の後ろで、この人は誰でどうしてこんなところにいるのだろうと冷静に不思議がる自分を少女は感じている。散歩?こんな辺鄙なところに?あたりに家はないはずだ。なぜかしら、誰か待っているのよ、という直感が囁く。
「名前、…どうして?」
 木漏れ日のなか青年は不思議な微笑を浮かべ、おや、と嘯いた。そのまま手を下ろして少女を見下ろす。ずいぶんと背が高い。
「だって君は、だろう?違う?」
 ああこの人は魔法使いなのだと少女はまた小鳥の上に手をやった。少女の髪が、幻のように風に吹かれている。さいごの時が来るよ。風が木陰で囁く。
 くちなしの丘の上で。



(090720)