03

 そっと男の耳元で、遠い日々が囁いている。
 懐かしいね、慕わしいねと光がわらって、内緒話をする。忘れるわけないだろう、と胸の内で返事を返して、男は歩を進めた。いっぽ進めば進むほど、過去に限りなく近づく。
 それでも、と男は思った。
 それがあらかじめ知っていた未来、それを受け入れることを選び、この坂を昇ることを待ち望んだ。あらかじめ知っていたことを、再びなぞることは、きっと楽しいばかりではないだろう。それでも。それでもと思うのだ、それでもと願うのだ。
 今日も坂道を昇ろう。長い坂道、草原に影を落とす花の咲く道を。懐かしくも慕わしい、ひとりの少女に会うために。

「やあ、。」
「こんにちは、ロムルス。」
 男はいつわりの名を使っている。その方が"自分"に都合がよかったことを、もうすでにあらかじめ彼はわかっているからだ。そうして自分がその名を使うことも、彼はもうすでに知っていた。
「今日は顔色がいいみたいだね。…元気そうだ。」
 その言葉の通り、少女の頬はすこやかなばら色をしている。呼吸も苦しげではなく、本当に調子がいいようだ。こんな日は珍しい。そしてこうして、毎日こんな初夏のやわらかなお天気が続くこの丘も、たぶん、おかしい。
 少女は不思議と、それを不思議に思わなかった。男もここでは、それで当たり前なのをわかっていたから、とくに何も言わない。だから、たぶん、そういうところなのだろう。
 時折雨が降ることはあったけれど、それは優しい涙雨で、空に虹だけ縢って消えてしまう。優しい世界、くちなしの丘。誰がこの世界を少女に用意したのか彼は知らないが、この世界は確実に、男のためにも在った。
 君に会う。そよぐ緑陰の中で、男と少女は、隣り合って座って他愛もない話をする。
 それはやくそくだ。男の中でもう何年も昔から、わかっていたきまりごと。
 そのためだけに、いきてきた。
 胸の中で少し呟いてみて、それではあまりに重過ぎる、と彼は苦笑した。羽のようにかろやかな、いのちでありたかった。いつだって、他の誰かのために、心臓を捧げてもいいのになと、他人事のように思っている。

「今日はね、」
 男の苦笑も知らず、わくわくと言葉を発する少女。
 懐かしく慕わしいその笑顔に、男もつられてついちゃんとした笑顔になる。それにすこし甘いものが滲むのは仕方のないこと。この少女にはやさしく、そして包み込むようにおおきく、無防備でありたかった。その願望が、より自らを優しく、純化させていることを彼は知らない。ただ優しくあろうと、少女を前にするとせつないような気持ちでそう思う。
「友達とクッキーを焼いたの。」
 果たして少女は男が泣きたいようなこうふくと切なさの只中にいるのを知っているだろうか。知らなくていい。男は思う。君がただこうふくであるなら。
「とっても上手にできたから、」
 少女は笑う。男を見上げて、だからおすそ分け、と言って、それからハンカチを広げた。花とは違うあまいにおい。チョコレートチップの入ったまるい菓子は、彼には何度も見覚えがあった。
「おいしそうだね、」
 素直に目を丸くしてうれしそうにした男に、がくすくすと肩を揺らす。なにかおかしいかな?と尋ねると、心持ちすまなそうに、けれどもわらうことは止めずに少女は「ごめんなさい、だって、」と一拍おいてまたわらった。

「私の知っている子とおんなじなんだもの」

 その言葉に男は不思議な微笑した。
 少女にはそのきれいな微笑の意味がわからなかったが、首を傾げていると大きな手で頭をなぜられた。めったに、というかまったく男が彼女にさわることがないものだから、彼女は「わあ」とわらいながらこっそりと頬をばらの色にした。彼の手のひらはごわごわとしてずいぶん優しく、くしゃくしゃと少女の髪をまぜた。そっと離れてゆく手を名残惜しく感じながら、少女は「髪型がだいなしだわ!」と照れ隠しに声を大きくする。
 小鳥のように、あいらしい少女だ。
 のどの奥で笑ってから、男はクッキーを一つ、摘み上げた。陽の光に漬すようにしてから、ぱくりと口の中に入れる。香ばしいかおりと味が、口いっぱいに広がった。ほろほろと解けるように、チョコレートはあまい。
 隣で少女が、口を少しあけてどきどきしながらこちらを伺っているのを知っていたので、わざと勿体付けて目を瞑り、ゆっくりと口を動かす。
 …懐かしい味。
 ふいに苦味がにじんだような錯覚をして、男は目を開ける。
 チョコレートのあまい味と香りが、口いっぱいに満ちている。

「…おいしい?」
「とてもね。」
 おずおずと尋ねた少女ににっこりと微笑んで、男はもうひとつ、とクッキーを口に運ぶ。それにほっとしたのか、少女は木の幹に深く背を預けて、自らもクッキーをひとつ摘んだ。
「ロムルスはあまいもの、大丈夫なのね。」
 もちろん、と頷きながら、彼はもうひとつクッキーを手に取る。味わっていつまでも食べていたいような、いっぺんにすべて口の中に押し込んでなくしてしまいたいような、矛盾した衝動がある。しかしそれは遠いところでなにやら言い争いを続けていて、彼はただ黙々と笑顔でクッキーをゆっくりとも早いともいえないスピードで食べ続けてた。

「私の友達のシリウスっていう子はね、」
 また彼女は話を続けている。最初のクッキーは申し訳程度に端っこが齧られただけで、進んでいない。尋ねれば「作るときにたくさん味見をしたの」という返事が返ってくるだろうことはわかっていたので、男はただ彼女の話を聞いていた。
「甘いものが嫌いなの、匂いもいやだって言うのよ。ひどいでしょう?」
「そいつは許せないな。」
 腕を組んで、神妙に親友を批判する自分が少しおかしくて、彼は笑いを隠すのに少しばかり苦労した。
 一等星の名前を聞くのは、どうにもずいぶん久しぶり。思い出せば怒りとも悲しみともつかない思いばかりが滲むから、学生時代の、あのあけすけの笑顔ばかり浮かべようと努力する。するとどうにも、「匂いもいやなんだ!」と眉をしかめる少年がすぐ隣でしかめっ面をしているような気がしてきて、ますますおかしくなった。
 少年がしかめつらして、自分を見下ろしている。「おい、リーマス!なにえらそうに俺のこと、悪く言うんだよ。」ああごめんよシリウス。
 一生懸命真面目な顔をしようと思うのだけれど、口端と目玉が笑っているのがばればれで、少女はそれに講義の声を上げる。ついに男は肩を揺らして陽気に笑い出した。
「ロムルス!」
「ごめん。」
 まったく少女の非難を気にしていない風に、しかし何か他の事に対して男は謝った。男はまだ笑っていて、まぼろしの少年がその隣で快活に笑い声を上げる。

 遠く置いてきたはずの思い出は、常に彼の影のように離れてくれない。
 もうずいぶん、みずから進んで囚われ続けているような気がする。
 忘れようとして、忘れられない。忘れたくなかった。記憶の向こうに、置いていかないでと、気がつくと願っている自分がいる。だからきっと、思い出こそが光で、自分こそがそれに寄り添う影だと、男は少し思った。光はすべて、気がつけばいつも背中に、いつも隣にあったから。




(090720)