少女の耳元で、囁くのはいつも対の光と影だった。
うつくしいね、さびしいね、やさしいね、かなしいよ、あかるいね、くらいね、なんだかしずか。交互に囁かれる言葉はどれも真実で、内緒話はいつも少女の胸のうち。きっと誰にも、聞かれることはないだろう。ずっとそう思っていた。
けれど時折、誰かに聞いてほしくなる。
私が生まれる前のこと、両親に聞いてみたいと思い、私が死んだ後のこと、誰かに忘れないと小指で契って欲しいと思う。
くちなしの丘。まぼろしのような、男が現れるまで、少女はずっと、風に、空に、木に、鳥に、囁いていた。私のこと忘れない?忘れないで、覚えていて。風も空も木も鳥も頷いた。
噫けれど。けれどきっと誰もが忘れてしまう。
それでも。少女は思う。今日も坂道を昇ろう。長い坂道、草原に影を落とす花の咲く道を。忘れてしまっても構わないから、それでもあの人に会おうと思って。
男は「ごめん、」とまったく気にしていない風に、しかし何か他の事に対して謝っている。もう、と少し笑って、それ以外は何も言わなかった。
男はいつも優しく、はかなげで、さびしそうだった。少女はきっと、誰か弔ったのだろうと思った。そしてその直感は、もはや奇妙に確信じみている。
男の目の中にある、優しくそして見ているこちらがくるしいような光が、かなしみであるということを、もはや少女は理解していた。誰かの死が、透き通って男の影の上に、青い光を投げていた。
くちなしの花は白く燃える。空は白群。噫こんなに良い天気なのに。
男を見ると、柔らかな水色の花が咲くように笑っている。今日の空の色のようだ。
噫、こんなに明るい日差しなのに。
少女は広がるあたり一面のくちなしの上に目を凝らした。陽光が金の粉をまぶしたように、木々の上で揺れていた。明るい日向。
笑っている。
見ていられないようなやさしい景色に、少女は真っ白なハンカチにつつんだクッキーを見下ろした。
目を逸らすことで見えてくるものもあるだろう。しかしまっすぐ見つめたままでは、明るすぎて見えないものがあるのだ。この日差しの中に、隠れているもの。目蓋を閉じたときに、ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせるその存在。それを少女はたぶん誰より知っていた。
見えないけれど、確かにある。すぐ傍らに、それはある。明るい日差しのその中に、影が潜んでいるように。隣の男にはかなしみが。そして少女の中には、死が。
そうだ、彼女も同じもの。こんなに良い天気なのに、こんなに明るい日差しなのに。
少女の心臓はとっくに壊れかけ、暗い影がそこを支配している。地の下の月、あの真っ暗な死が、泣きたくなるほど優しい腕を伸ばして待っていた。そのときはおそらく決して遠くはなく、なのにこんなに晴れやかな気分で、丘に座ることができる。
「、」
不意に男に呼ばれて、少女はうっすらと青褪めた顔を上げた。
まるで少女の思考が暗いほうへ沈むのを見計らったように、男の声は届いた。
水面に投げ込まれたまぁるいちいさなすべすべした小石を、底に着くまでに掬い上げるようなタイミング。透明な手のひらからは、死の淵の水から掬ったとは思えないほど、澄んだ美しい水が落ちる。手のひらに残った少女は、どうしようもなくて少し笑った。どこかで底へ着くことを望んでいる自分もいるのかもしれない。水底は決して真っ暗な闇ではなく、青に青を重ねた紺碧の世界。最後の光のひとかけらも届かないけれど、真っ青な眠りの、世界だと知っている。
そう思うと消えてしまいたくて仕方がなかった。
忘れられる前に忘れられてしまおうと思う。その方法がわからなかった。だからこうして、毎日この丘を昇ったのかもしれない。誰もいない丘。少女が知る中で、一等やさしくうつくしい清らかな景色。そこには誰もいない。
誰にも見られたくなかった、少女を知る人すべてに。誰も見ないでほしかった。弱っていく自分、噫、そのとき君はどんな目で私を見る?
苦しいときほど丘を昇った。のぼればひとり。誰もいないはずだのに。
男が少女を覗き込んで、ことりと首を傾ける。
「、私があんまり笑うので怒ってしまった?」
少しからかうように男が笑った。口端を上げて笑うと、まだ随分若く見える。
見当外れのことを、見当外れとわかっていて、口にする男がおかしくてわらった。「わらったね、」とやわらかく言われて、少女はちょっと顔をあかくした。男は時々、びっくりするくらいやさしくあまやかな声音で話す。多分無意識なのだろう。だからなおさら、少女は困った。
うつくしい彼が、ただの小娘に発するには、あまりにうっとりとするような響きを帯びすぎているように思うのだ。それを向けられるような大した存在ではないと思いながら、しかしその声音に胸を高鳴らせている自分がいる。
不思議な人。なにも知らないはずなのに、なにもかもを知られているような気がする。
知っているの?私が死んでしまうって。
何度そう語りかけそうになったことだろう。尋ねるまでもなく、きっと知っているだろうとすら、男は彼女に思わせる。きっと知っている。それでなお、男は少女に語りかけた。
やあ、こんにちは。いい天気だね。雲雀が飛んでいくよ。
少女の顔色がたとえ真っ青でも、彼は背中を撫ぜて軽い治癒魔法を施してくれるだけだった。特になにも言わない。なにも尋ねられない。気を使われている?そんな感じはしない。ただ、あるがまま、すべて受け入れているように見える。
時折捧教人のように見える男の微笑は、少女をひどく落ち着かせる。彼のその態度は彼女が望むものだったが、同時に少女に悲しみもつきつけていた。
男を見ていると、常以上に強く思う。
自分は死ぬのだ。
時折少女は、この男は死神だろうかと思う。そうしてその後には、その優しい微笑と声音と彼女に与えたこうふくとを思い返して、それでもかまわないと思う。彼が死神であるなら優しい死神に違いない。こうして隣に座って、他愛もない話をし、少女の背中に纏わりついた死の影をまったく気にしていない風に振舞ってくれる。
心配されたくなかった、悲しまれたくなかった、自分のことなど気にしないでほしかった。死んでしまう子供の相手など嫌だとも、死んでしまうのだねかわいそうにとも、死なないでどうぞ生きて、とも、男は言わない。
ただそこにいる。おそれなくてもいいのだよ、とでも言うように。残った時間をその優しさすべてでくるむように、微笑っている。
いつしか少女は、彼ならばたとえ目の前で自分が死んでも、穏やかな目をしておやすみを言ってくれるのではないかと期待し始めている。その手も口端も震えることはなく、ただ変わらず、少し疲れて木の下で昼寝をする少女にするように、ただ「おやすみ」と。
それが少女の望む全てだった。
誰の記憶からも薄れた頃に、静かに消えてしまいたかった。春が夏に、夏が秋に、秋が冬に、冬は春に。気がつけば過ぎてめぐる季節の自然な流れの中で、忘れられることもなく忘れられたかった。みんな優しいから、きっと泣く、嘆く、落ち込む、沈む、悲しむ。けれどそれも時が経てば、薄れてみんな忘れるだろう。
忘れないで。いつまでも覚えていて。また私が帰ってきたときに、おはようと言って欲しい。
ばかげた望みだ。知っている。それでも願わずにはいられなかった。
それをわがままだ、とも思い、地獄へおちるだろうかとも思う。悲しまないで欲しいと願うのは本心で、だから忘れて欲しかった。けれども悲しみとは別のところで、覚えていても欲しかったのだ。忘れていいからわすれないでと、いつも矛盾したいのりを抱えて、いつ止まるともしれない胸をかかえていた。
それでもいつも祈っている。
もはや残された時は少なく、死は常に少女の胸の中、背中合わせにあったから。
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