いつの頃からか少女の髪からはあまい花の香りがした。
なんという花だっけ。白いはなびらがぼんやりと記憶の中に浮かんだがその名が浮かばない。なんだっけな。チラリと見やった少女の頬は白く、目元はやさしい。いつもとなにも変わらない。長い髪が風に解ける。噫ほらやっぱり。花のかおりがする。光の下で、やはり少女はうつくしい。
なのにどうして儚いのだろう。頬杖をついて窓の外を眺めながら、少年は考える。空は霞みがかって淡い色、青にミルクが混入されたのに違いないと思う。
白い花。
名前が思い出せない。
「最近がよくどこかへ行ってしまうの。」
赤い髪が美しい、少女が緑の目でそう言った。
「ちょっと目を離すとね。いなくなってるのよ!」
まったくどうして解せない、という様子の少女に、「おいおい、」と少しえらそうに呆れた響きの声がかかる。
「別にが、どこ行ったって勝手だろう。」
確かにそれは正論だが、少年の話し方はいつも、少しばかり悪い。どうしても上からの物言いが抜けないので、こうして時折誤解を招く。今もちょっと、馬鹿にしたような響きになった。
本人にそのつもりはないので困りものだな、ともう一人、少年はその会話を聞きながら考えていた。窓辺の緑が目にあざやか。
「シリウスったら!あなた心配じゃないの!?最近ずっと体調もよくないみたいだし、まだ寒いのに!」
少女にキッときれいな形の眉をあげてにらまれて、少年は肩を竦めた。
彼女の美貌もさることながら、しかし彼もまた美しい少年だ。銀の目にかかった黒髪を払いのけながら、やれやれと言う仕草をしてみせる。そんな仕草ですらどこか貴人じみていて、長い睫の下では、いつも、銀の目が少し冷たい星の色をしている。
暖炉で薪が、パキンと爆ぜた。
浅い春とは言え、まだ石造りのお城は冷える。彼女はどこへ行っただろう。
「リーマスだって心配でしょう!」
最初の少年では話にならないと踏んだのか、少女がくるりと振り返る。
赤く燃える薪が金属の塊のようで、窓から目を移して今度はそれを見つめていた少年は、急に名前を呼ばれて少し目を丸くした。まったく心積もりをしていなかったので返事に一瞬詰まる。まさか自分に少女の矛先が向かってくるとは思いもしていなかったのだ。
リーマスというらしいその少年は、くすんだ金の髪、懐かしいアルバムの色をして、こまったように微笑んだ。
「うん、心配だな。」
それは確かに本心だった。
、。お花のような、女の子。古い校舎の柱の影に、はにかんだ微笑と一緒に見え隠れする。いつも彼のことを、リーマス、と控えめに名前で呼んで、わらう。図書室の影の中で、少女は光を纏って見えた。おとなしくって、でも明るく、いつも微笑んでいる印象がある。チョコレートが彼と同じで好き。色が透き通るような首筋をして、どこか、ふわりと夢のように消えてしまいそうなところがある。そのという少女は、リーマスという少年にとって、とくべつな意味を帯びていた。
「でしょう!」
探しに行きましょう、と言って、少女がいざ!とリーマスの腕を取る。
「リリー、」
落ち着いて、と続けようとした彼の言葉をさえぎって、「ちょおおっと待った!」賑やかしい声が飛んだ。振り返れば談話室の入り口に、右手をまっすぐ天に向かって突き上げる、不思議なポォズを決めたひょろりと背の高い少年が、その黒い髪と同じくらい、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
「ジェームズ!」
少女に名前を呼ばれて、彼はそれだけでうれしそうだ。ニッと笑うと、その長い足で、いち、にの、さんぽ。あっと言う間に少女の手をリーマスの腕からやさしく攫うと、さっと跪いて彼女を見上げた。
ああまたいつもの茶番が始まった。
最初の少年の、うんざりした響きもまるで聞こえないらしい。目をかがやかせて、ジェームズ、の目は少女だけを映す。
「リリー、この寒い中を探して歩きまわるなんてナンセンス!」
「まあ!じゃああなたはを放っておけって言うの!」
美しい眉を吊り上げた花の名前の少女に、「最後まで聞いてくれ、」と芝居がかった仕草で彼は首を振り、悲痛そうな顔を作った。暇だなあ!と言う投げやりな最初の少年のひとりごとに、リーマスはうっかり頷きかけて息を止める。
「いいかいリリー、どうしてこの!僕に!頼ろうと考えつかないんだい!」
少女があきれて何か言う前に、ジェームズは名残惜しげに彼女の手を離すと、そのまま騎士が姫君になにか献上するように、うやうやしく手を掲げた。いつの間にかその手に乗っていたのは、古びた羊皮紙がいちまい。すっかり巻癖がついてしまっていて、何も知らない人間にとっては、ただのぼろにしか見えない。
しかしそれを見て、最初の少年は思わず椅子から落ちそうになり声を上げたし、リーマスも目を丸くして固まった。
「この大馬鹿野郎!」
結局椅子から落っこちながら上げられた叫びに、今度こそリーマスは心の底から頷く。
最初の少年、シリウスの言うとおり、ジェームズというこの少年は、馬鹿だ。馬鹿なのである。正確に言うならば、突飛な天才で、つまり、やはり、馬鹿だ。特にこのリリーという少女が絡むと、ろくなことはない。
シリウスとリーマスの抗議の声もどこ吹く風。「これはなんなの?」と訝しげに尋ねる少女に、ジェームズは嬉々として立ち上がると、ついと彼女に顔を寄せた。うつくしい光景なのだが、やはり、彼の持つ雰囲気がそれをそうと感じさせない。
これは僕の作った――ここで彼は「俺たちの!」という叫びを黙殺し――とそこまで言って、丸い眼鏡を白く光らせ、彼は笑う。
「忍びの地図と言ってね…このホグワーツのどこに誰がいるのか!一発でわかる代物なのさ!」
ここで「まあ!」と頬を輝かせて喜ぶような少女なら、多分このジェームズという少年は惚れたりしなかったのだろう。
聖女の花の少女は、その地図をまじまじと見てから冷静に、「どう考えても校則と法律を軽く十は違反しているわね。」と呟いた。俺たちの!と先ほど勢いよく主張したシリウスが、黒い髪に少し手をやって、目を泳がせる。ジトリと言う視線を向けられたリーマスも微笑したままついと目を逸らした。ジェームズばかりが、かがやく瞳を、誉めて褒めてといわんばかりに一心にリリーに向けており、しばらく沈黙が落ちる。
「…まあいいわ。」
折れたのは以外にも少女の方で、ジェームズ以外の二人は、内心ほっと肩を撫で下ろした。
「今はを探すのが先決だもの。ジェームズ、やってくれる?」
もちろんですとも!と彼が声を上げ、同時に丸まった紙を伸ばす。なんとも不穏でふざけた呪文の後で、「はどこ?」と尋ねた地図は答えなかった。沈黙している。
おや、とシリウスとリーマスも立ち上がり地図を覗き込んだが、紙の上に浮かび上がった城に、の文字はない。
「どういうこと?」
少女の視線に少し、ジェームズが冷や汗をかき、杖で何度か地図を叩いた。
「!!どこ!どこ!」
「いねえんだろ。城に。」
シリウスの冷静な分析に、ジェームズが目を丸くする。
「なんだってまた!」
「知らねえよ。」
肩を竦めてシリウスがソファへ戻ってゆく。
「にだって都合があるんだろ、子供じゃないんだ、ほっといてやれよ。」
「シリウス!君ってやつはなんって冷たい男なんだ!」
「ほっとけ!」
「やっぱりあなたたちあてにならないわ!もういい!探してくる!」
「待ってよリリー!」
「踏むな引っ張るな押すな!」
いつもの騒ぎが始まった。
さて、どうしたものだろうか。いつのころからかこの騒々しさは嫌いではなくなった。彼らの騒々しさはずいぶん、リーマスを知らず知らず救ってきたのだ。という少女の静謐さもまた、彼をずいぶん何度も、すくいあげた。彼女の持つ穏やかな空気は、いつだって彼の精神を安定させた。
「…心配だね、」
忘れられたように、ソファの影に座っていた少年が、リーマスを見上げて少し微笑した。眉を八の字にして、いつだって困ったような笑い方をするこの少年は、ずいぶんと人の感情の機敏に敏い。
心配だね、と彼は言った。ほかでもない、リーマスに。
それに「うん」と、素直に彼は頷いた。それに少年が、ほっと眉間に入った力を緩める。
「ど、どこ行っちゃったんだろうね、…」
「…すぐ帰ってくるよ。」
そう微笑みながら、最近白い頬をして少し遅い時間に帰ってくる少女のことを、リーマスは瞼の裏に思い浮かべた。どこへ行っているのだろう。
少女の髪からはいつも、白い花のかおりがした。
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