07

 男の声は、セロに似ていると少女は思う。
 古くて掠れた、赤いセロの奏でるほろ苦くあまい音。それはひくく落ち着いた音で、夜眠る前に、童話を読んでほしくなるような、そんな穏やかさを持っていた。どこか遠くから聞こえるようなその声は、優しさだけでなく悲しみも孤独も帯びて。だからこそそんなにも穏やかに、染みいるように響くのだということが、少女にはまだ理解できず、ただただそのやわらかい音を、いつまでも聞いていたいように思った。
 おはなしをよんでほしい。私が眠ってしまう、その前に。
 おやすみと言ってほしい。私の精神が消滅する、その眠りの直前に。誰にも聞こえないように、おやすみ、と。

「へえ?」

 男は面白そうに、相槌を打ちながら首を傾げた。それに彼女は、口を少しとがらせながら言葉を続ける。
 くちなしの丘は今日も明るく、やわらかい光に満ちている。白樺の梢は変わらず優しい木をかがって、鳥は歌う。風がくちなしの森を渡る。はなびらがどこへとも知らず、流れてゆく。
「笑いごとじゃあないのよ、ロムルス!ほんとうに大変だったんだから!」
 それでもやはり男は、おかしそうに肩を揺すって笑った。もちろんとて、本気で怒っているわけではない。他愛のない話しの一部だ。
 昨日あったこと、今日思ったこと、失敗したこと、面白かったこと、楽しかったこと。男はどんな些細な話にも、笑ったり真剣に考えたりまじめにコメントをしたりと忙しい。
 男はずいぶんと話を聞くのが上手い。
 それから?とその声音と金色の瞳で続きを促されると、もうすっかり話し尽くしたとが思っていても、口から話題が沸いてくるのだから不思議なものだ。おかげで男は、彼女の生活にかかわる主要な人物をすっかり覚えてしまったらしかった。

「それで、リリーはどうしたんだい?」
「ジェームズとシリウスを正座させてね、お説教始めたのだけれど、二人とも逃げ出して、またリリーはカンカンでね―――、」
 男が笑う。も笑った。楽しかったのだ。男は彼女が忘れていたような、ほんの些細な日常まで掬い上げる。
 それとは逆に、男はほとんど、まったく、自分のことを話さない。

 ロムルスと言う名。やはり彼もまたホグワーツに在籍していたらしいことが彼女への相槌で窺えた。甘いものが好きで、目がないこと。

  ほんのそれくらいのものだった。春の初めから春の盛りも過ぎようと言うのに、まだは男について、それくらいの情報しか知りえなかった。

 ただ感じる、彼にぴったりと寄り添う青い影。それこそが悲しみであり、誰かの死に違いない。少女は思う。確信する。
 男がどこのだれであるのか。あるいは本当に、死神なのやもしれぬ。
 そんなことは、にはもはや、些細な問題になりつつあった。彼女の小さな胸を占める問題は、いつもたったひとつ。死。遠くないいつか、訪れる約束。それからほんのわずかに、ある少年のことも。そのことに彼女が、気づいているかは誰も知りえないことだけれど。

「リリーったら、杖持って廊下の端から端まで追っかけたのよ、すごかったの!」
 笑いあいながらい、しかし遠くでずっとひとつのことを思考し続ける自分がいるのを彼女は知っていた。

 男と会う度に、彼女は思うのだ。
 そうして自分の死も、いつか誰かにこんなふうに青い影、投げかけるのだろうか。
 そう思うと、いたたまれないような気がしながら、その実どこかでそれを願う彼女がいる。男の上にかかる透き通った青い影は、美しく、さびしく、やさしかった。自分の死もそうやって、常に誰かの上にかかり、その微笑にさびしい美しさを乗せるだろうか。
 そう考えると、背徳めいた甘さが少しばかり滲んでしまうのを、どうして誰かに責められたものだろう。男の上にかかる影が、きっとこれからも消えないように、その誰かの死も、男の上から決して消えはしないだろう。それは忘れられないことと同意で、それは彼女にとってしなないこととも同じだった。
 肉体と魂とが滅んでも、忘れられなければ、生きているのに違いない。
 誰かが彼女を思い出す時、確かに自分はその誰かの中に生きている。それは少女の延長ではないかもしれないが、確かにその誰かの中に切り取ってしまい込まれた、、そのものであるのだから。

 自らの肉体の死に関しては、少女はもうほとんど望みなど持っていない。確定された肉体の死に対して、彼女は驚くべきほどに、無感動であったのだ。それは最早、彼女の世界が始まった時からの約束事で、ただ彼女を悲しませ、苦しませるのは死後のこと。天国や地獄が、あろうがなかろうかそんなことは問題ではなかった。死んでしまうことも、笑えるほどに決まりきっていて、自然なことですらある。
 彼女に重要なのは、ただただ彼女がいなくなったあと、それでも回る時間のこと。彼女を置いて廻る季節のこと。忘れられること。そればかりだ。

 死ぬのは恐ろしくなくて、だのに忘れられるのはこわいだなんて、おかしいことだと人は思うのだろうか。
 けれどもそれが彼女には、最も恐ろしいことだった。
 忘れられる。
 それこそが死だ。肉体の――物質の儚さ、脆さを十二分に知っている彼女にとって、精神の強靭さこそが最後の希望。
 我々の肉体は、こんなにも脆弱だ。時には最初から、彼女のように壊れてしまっていたりすらもする。そんな彼女に残された、たったひとつの信仰は、神でもなければ悪魔でもなく、魔法でも愛でもなかった。
 時間と記憶。
 彼女が最もおそれ、信じたいと願っているもの。過去になることはさびしく恐ろしくて、肉体が滅んでもなお、誰かの記憶の中に"いま"として残っていたかった。誰かのために死のうとか、生きてることがつらいとか、そう言う風には思わない。どんなに諦めていても、それでもやはり死は恐ろしく、けれども決まりきっていて、どうあがくこともできない。

 それならせめて、せめてと彼女は願うのだ。
 どうぞ、どうぞ忘れないで、悲しまないで、忘れてしまって、悲しんで。
 忘れられたくないけれど、悲しまないで欲しかった。悲しまれたくないから、忘れてしまって欲しくて、けれどその死を、悲しんでも欲しがったのだ。自分が完全に消失することが恐ろしい。誰かの中にかけらでも、残っていたいと望むのに、それはその誰かに悲しみを齎す。

 どうしてこんな風にしか存在できないのだろう。
 髪を少し強くなった風に任せて、は首を少し振る。なみだは出ず、ただこんなにも心は透き通った藍色をして。
?」
 くちなしが風に吹かれてわらう。
 泣かないで、苦しまないで、大丈夫、また春は来るわ、あなたにもそうしてまた会えるのでしょう?と。
「大丈夫。たくさんおしゃべりしたので、少し疲れただけ。」
 くちなしと言うのは饒舌で、あまりにもしあわせだと笑いさざめきながら散ってゆく。甘い香りとそのこうふくの余韻だけ残して、白い花びらは地にまみれる。
 くちなしのようになりたかった。
「…そう、」
 悲しさや寂しさや、痛みを伴う傷を残さず、ただこうふくの余韻と笑いさざめく声のこだまだけ、春の記憶の片隅に、やわらかに優しく、残して死ぬことができれば、と。そうして再び春がくることを疑うことがないように、いつか再びまた彼女自身が変わらぬ姿でやってくることを、疑いもせず信じて、彼女が帰ってくるその時まで、覚えて待っていて欲しかった。

「では少しお休み。大丈夫、私がついていてあげる。」

 男が微笑む。青い影。あなたは死神なの?少女は尋ねず、かすかに微笑して頷いた。
 ああ今年も、気がつけば散ってしまったねぇ、来年また咲くのが楽しみだね、と、そんな風に軽い命で構わないのに。



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