08


「君はさいきん、なにをするにも上の空だね。」
 少し不機嫌に、けれどもなにか恐れるように、少年はそう言った。
 そうかしら、と少女は自らのつま先を眺めたまま呟く。昼下がりの図書館はいつにも増して静かで、明るい外の光が、まっすぐに窓から差し込んでいる。埃が舞って、空間は少しセピアがかった黄昏の色。図書館では時が止まっている―――正しくは、時が停滞している。ずいぶんゆっくり、ゆっくりと空気が渦を巻いてめぐる。秒針の音。やけにちかく響く。遠くで本を閉じる音、ふいに大きく聞こえてくるね。図書館の時間と空間は、内側に向かって優しく閉じられている。君が今手にした本とおなじに。
 二人は図書館の奥、書架が積み上がってできた小さな塔の上に並んで腰掛けていた。張り出し窓から差し込む光が、二人の背中をあかるくきらめかせる。
 その色褪せた光の中で、やはり少年の髪はくすんだ金に光った。さらさらと同色の影を落として、それを少女はいつもうつくしいと思った。神秘ってこういうことだろうかと、ぼんやりとかんじる。
 外から楽しそうな、こどもたちの話し声。

 この張出し窓にひとり座って、少年はときおりそれを見下ろしていた。そうするとその横顔は、大理石で作られた天使の彫像のように光に透き通って、同時にとても、遠くなった。それを見つけ、その美しさと静謐さに息をのみ、そっと梯子を登ってやっと、リーマス、とその名を呼ぶ。時間が、永遠のようにすら感じられるほど、図書館でひとりの彼はひたすらに遠い。
 もちろん少女は知らない。
 図書館の床に伸びる光と影の中、彼女がひっそりと佇んで誰もいない張出し窓を見上げている様が、少年には同じように、光にくるまれた天使の彫像に見えること。そのさまがとても透き通って遠く、どこか不安にさせること。

「そうだよ。」
 ポツリと少年は言葉を返した。密やかな会話。外は良い天気だ。図書館にはほとんど人がいない。
「…、」
 少年が何か言おうとして、口を開き、そして閉じる。かすかに伏せられた目蓋。
 それだけの動作だ。心臓が震えるのはなぜだろうか。少女は知らず知らず、壊れかけた胸をそっと押さえた。

「…あのね、」
 何を話せばいいのだろうか。
 何から話そう。
 あなたに知っていてほしいことはたくさんあるのに、なにも聞いてほしくない。私が死ぬこと、私がいなくなること。
 君の悲しみの正体、君の影の理由。知りたいけれど知りたくないこと。
 そのどちらともがたくさん。たくさん。
「私、」
 くちなしの丘が、ふいに頭の中に広がった。
 あまいかおり。さえずる小鳥たちの声と、地面に落ちる光と影と。白い花、緑の絨毯、白樺の木。その下で待つ人のこと。花びらがやわらかい風に舞って、光と影のダンス。白群の空に雲が流れて、ゆったりとした風の吹く丘。坂道を昇った先。緑の海に浮かぶ帆船のような。そこで待つ人。黄昏の色をした男。
 あなたににているのよ。
 言葉にならない。 それをなんと伝えようか。あのね、リーマス。聞いてほしいお話があるの、私、それがときどき夢なんじゃないかしらって、不安になるのよ。それでもあんまりその景色が美しいから、夢でもいいからもう一度と思うの。庭の壊れた垣根なんてなかったらどうしよう。丘がなかったら、あの人がいなかったら?
 それでも丘は存在するし、花の咲く長い道を昇れば、あの人はいる。夢じゃない。そのことがとてもうれしいの。今日も朝目が覚めて、あなたにおはようと言えるのとおんなじに。

「私、魔法使いに会ったわ。」

 言葉になりきらなくて少女はそう言った。少年が不思議そうに首を傾げた。彼もまた、魔法使い。そうして彼女も、魔女であるのに。おかしな話だ。少女の口調はまるで初めて、"魔法使い"なる存在に出会ったような言い草で。それでいて、なんだかとても。
 少年は胃の底が重くなるような気分がした。だってそれはあんまりにも――うっとりするようなやわらかい響き、している。

 そもそも最近の彼は少し機嫌が悪い。何時の頃からか、少女があんまり、どこか彼の知らない遠いところばかり、見つめては、かわいらしくため息、つくものだから。
 なんだい、せっかくハニーデュークスへ行こうって話をしてたんじゃなかったの?
 けれどその文句も言えないほど、少女は自らの夢想に沈んでいるように見える。勇気を絞って尋ねた問いに返った言葉も、謎かけのような響きで答えにならない。

 なにか言おうと口を開くその前に、少年は再び、少女の髪からあまい香りがこぼれていることに気づいた。
 いつの頃からか少女の髪からはあまい花の香りがした。なんという花だっけ。白いはなびらがぼんやりと記憶の中に浮かんだがその名が浮かばない。なんだっけな。ほろほろとこぼれる香こそが夢のように。
 チラリと見やった少女の頬は白く、目元はやさしい。いつもとなにも変わらない。
「…その人ね、………どうしてか私の名前を知っているの、不思議でしょう?」
 長い髪が風に解ける。噫ほらやっぱり。花のかおりがする。光の下で、やはり少女はうつくしい。 なのにどうして儚いのだろう。聞きたくないと思い、少年は考える。隣に座る少女の瞳は、夢でも見ているようじゃないか。聞きたくない。みたくないな。
 視線をずらした先の空は、霞みがかって淡い色、青にミルクが混入されたのに違いない。
「背が高くてね、少しくたびれた格好、しているの。」

 ああ花の匂いだ。少年は考える。
 白い花。
 名前が思い出せない。



(110220)