少女は最近、だんだんますます透き通って儚くなってきたと、男はその横顔を盗み見ながら思う。
しかしそれでも、少女はゆっくりゆっくりこの丘を昇って彼に会いにきたし、彼はそれをここで待っていた。それしか他を知らないようだなと、自分でも彼は思う。事実その通りで、二人はそれしか知らなかった。もっと正確に言うならば、彼にはそれしか知らされていなかったのだ。愚かであるのかもしれない、おそらく馬鹿げてすらいるだろう。それでも決して、リディクラスと唱えて吹き消すには、この丘とそこに流れる時間は、美しく優し過ぎた。
時折この、美しい子供が、胸の発作に頬を蒼褪めさせる時、彼は言いようのない胸の痛みを覚える。それこそ彼女の痛みと同等の、あるいはそれ以上の痛みを。大丈夫かと尋ねると、少女は平気だと答える。それが嘘であることなど、彼は誰より知っていた。大丈夫かと訊かれたら、大丈夫と答える他にないじゃないか、と―――。彼もまた病を抱えていた。しかしそれはすぐさま死に直結するような、残りの日々をカウントダウンするような類のものではなく、ただひたすらに彼を孤独にした。そうしてその病の名は、隠されるべきものだった。
隠された病を持っている。少女も彼も、お互いのその気配に敏感に気付いた。彼はもちろん気づく前から知っていたが、おそらく少女は、そうと自覚しないまでも無意識にそれを嗅ぎ取って、彼に仄暗い親しみを覚えたろう。
男は少女の頬に少し指を伸ばして、それからその髪を撫ぜた。
「少し眠るといい。」
「あら!眠くなんてないわ!」
「だが顔色があまりよくないよ。」
以前おやすみと言うと安堵したように目を閉じた少女は、最近このあたたかな日射しが降り注ぐ丘でも眠らない。眠ることを恐れるような、その間の時間を惜しむような、かすかな焦りが優しい色の目玉に透けて見えた。
「君はもう、何年生になるのだっけ。」
「もう五年になるの。」
「…そう。」
時が動くのが目に見えるようだと思った。
こうしてこのくちなしの咲く丘への道が開かれた時点で、彼はその時が近いことも知っていた。噫けれど。もうすぐ、もうすぐやってくる。
さようならのじかんだよ。
「最近クッキーを焼いてきてくれないね?」
「食べてくれるの?」
「もちろん。見ての通り、私は貧乏しているが甘いものには目がないんだ。」
肩を竦めて片目を瞑ると、少女がくすくすと小さく笑った。それだけで胸に灯の燈るような気持ちになるから不思議だ。幼い子供でもあるまいに、それだけでこうふくだと思った。
君がわらうと、僕もうれしい。
男は声にならない囁きをこぼした。君がさいわいであるなら、僕もさいわいだ。
少女がわらっている。
いつかの遠い君。手を伸ばせば触れることすらできる。せつないような苦しさだ。けれど泣きたくなるほどしあわせなんだ。
この複雑でいっぱいいっぱいに飽和した胸のうちを開いて、誰かに語りかけたかった。
なくしたものとりに戻るのも、忘れたもの覚えているのも、いなくなった人を夢でなく現実に見るのも、同じことだ。彼はそれを、おそらく誰よりも知っていた。
噫、君のさいわいだけ祈っている。いつだって君の心がすこやかであるように。泣きたいくらいに願っているよ。いつだってそう、少女の髪を撫ぜながらその目蓋に口をつけてそう告げたかった。
けれど言葉にしてはいけない。その時は近づきつつあり、それでもまだ早いのを彼は知っていた。
少し痩せた少女の頬を見る。しかしその瞳は、なんてあたたかないのちの色、しているんだろう。それを見る度、彼はこの少女がこのまま癒えて、いつまでもいつまでも成長していくような気がしてならない。それは願望だ。知っている。この少女は遠い昔に死んでしまったのだから。
「さあ、風が冷たくなってきた。そろそろ夕食の時間だろう。」
またねと手を振りあって、少女を見送った後で、彼は丘を登る道を見る。
くちなしの咲く丘。
そこから伸びる、影よりも遙かに遠いお城へ続く道を。彼はその先を見る。夢よりも確かに遠い、あの頃の誰かを。それに向かって早くおいでとからかうように微笑いながら、来なければいいのにと囁いては自分に呆れている。
近いいつか、あの道を通って、少年がくる。
その時少女に謎はすべて開かれて、男は丘を去り、少年には謎だけが残る。やがてすぐに頭の中でほどける優しいなぞなぞが。
丘が光にくるまれて眠っている。
まだその時ではないと梢で風がざわめく。少女の話す声。小鳥の囀りのようだ。まだかすかにあちこちに残っているそれに耳を澄ませながら、男は微笑む。もうずいぶんと長い間、僕はこうして再び君のとりとめのない話に耳を傾けるときを心待ちにしていたよ。
音のない囁きを、いつも男は発していた。いつか、君に、届くかな。
もうすぐ届いたことも、知っている。
それでもやはり、彼にはそれを願わずにいられないのだ。他でもない君のこと、くちなしの丘。ずいぶん待たされた約束の地で。
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