少女がくちなしの丘を訪れなくなった。
男はそれをやはりあらかじめ知っていたから、驚きも悲しみもしなかった。ただうっすらと寂しく、どこかで満たされてゆくのを感じているだけ。
変わらず丘は明るく、白樺の梢は金色の日光を縢る。白い鳥、彼女の胸に住む鳥が舞う、乳白色の空。くちなしの花々が、わらいさざめく漣に似た音。
彼はあたたかな風に目を細めて、それから透明な紙に透明なペンで、目に見えない手紙を書くことにする。この丘の空気に、音のない言葉を刻み込むことにする。
宙に腕をのばすと、体の中までくちなしの香りに満ちて、この寂しい空色に指先から溶け出しそうな気がした。このまま大気になってこの丘そのもななったらどんなにか心穏やかな優しい存在になれるだろう。それでも彼は、人の形を留めている。
この目で君を見、この手で君に触れる。それが大切だった。それだけがすべてで、そのすべてをなくしても、人は生きていける、それだけがさびしく、残酷で、それでも優しかった。
そういう風に、できている。くちなしの丘とは、そういうところだ。
時は螺旋の階段。彼はその透明な手紙を紙飛行機の形に折って、自らが昇ってきた過去の段上に、投げかけようとしている。そしてひとりの少女が、手のひらから飛び立たせた鳥が、螺旋階段の中心を貫いて天上へと飛翔してゆく。その羽ばたきが彼のすぐ耳元を掠めていった。その羽が起こす風が、彼の頬にかかる。もうすぐ、もうすぐだよ。あの時は、その時は、すぐ、そこにある。この階段を一歩、昇るのか降りるのか、彼はよく知らない。それでもすぐ目の前にあることだけが確かだった。
丘は沈黙している。丘は微笑している。丘は待っている。丘は知っている。丘はただ日光にくるまれてここにいる―――。
優しく閉ざされた、ざんこくな世界。
このくちなしの丘の上で、君に手紙を書こう。
男はそのまま空に手を伸ばすように腕をさらに差し出した。先から解けて、風になれそうな気分だ。光の注ぐ木の下、遠くの空には虹が出ているよ。雲雀が鳴いてる。白い花が揺れているよ。どこまでもどこまでも、花の香りが続いていく。
あの道をのぼって。
いつかまた君は来る。
男は預言者ではないが知っていた。
必ず君はくるだろう。壊れかけた胸を押さえ、それでも光を纏いながら。君は来る。この坂をのぼり、まだ若い白樺の木の下で、見知らぬ男に会うだろう。そうして並んで景色を眺めて、色々の話をする。
必ず君は来る。最後の時が訪れるその前に、すべての答えを知るためと思い込んで、この坂を昇ってくる。心臓はもうほぼ壊れていて、それでも君は、やって来る。変わらず丘に座って自分を待つ男に、彼女は初めて問いかける。
必ず君は来る。魔法使いと他愛のないおしゃべりを交わし、その胸に潜む不安と孤独の影に目を凝らすように、明るい日射しの中で微笑む。その微笑に、男が泣き出したい気分でいるのなんて知りもしないで。
必ず君は来る。悲壮な気持ちで、この坂を昇ってくる。そうして少女から、優しい謎をその透けた手のひらで手渡される。君は泣いただろうか。実は私は、よく覚えていないんだ。その小指で、約束をしなくてはならない。
必ず君は来る。もう一度出会い、約束するためだけに、その約束を守ってそれだけを頼りにこの丘へ辿りつく。そうしてまだ若い白樺の木の下で、ただ君を待つ。やわらかい草の上、帆をはる船のように、しかし停泊する。
君の秘密はいつだって、君のために、僕の秘密はいつだって、僕のためにだけあった。それでも口を閉ざしたのはたしかに誰かのためだったのだ。
やがて来る君に、花の中なにを話そう。
歌でもうたいたい気分だ。ケルトがいいな、そう思いながら、彼は口を閉ざしていた。頭の中に、メロディーだけが鳴っている。
いつか訪れた、いつか訪れるその"時"。
その時は無数に、あちこちに散らばっていた。彼の後にも前にも、その小さな点がばらまかれている。それがもはや前にあるのか後ろにあるのかすら、彼にはわからない。ただその時が在る、それだけ知っていれば十分だったから。
だからその時まで、男は時折この丘にのぼっては、君に手紙を書く。宛名と切手、文字どころか、封筒も、便箋すらない手紙を。
時は螺旋の階段。思わぬところで繋がって、我々は思わぬ人に会う。書いた手紙を紙飛行機に折って、風に乗せれば、のぼってきた階段の下へ、それは静かに辿りつく。それを拾って、懐かしい少女が読むだろう。
くちなしの花を、僕は投げる。くちなしの歌を、君は歌う。
螺旋階段のずっと上からは、天上の光が降り注いでいる。それはずっと未来の、あるいはずっと過去の、君か、僕か、誰かが投げかけた光かもしれない。その先へ飛んでいったあの白い鳥は、何を見るだろう。そうして僕自身、過去に光と影を投げかけている。僕の影は過去に落ちる。君の光は未来へ伸びた。その重なった点と点で、僕たちは何度でも出会う。
こうして君を待つことは、その階段を下へ下へと下ることに違いない。そうしていつかの明日に辿りつく。その階段に底も天井もない、きっと捩じれた優しい、穏やかな円を構成し、思わぬところに繋がっているのだ。
今ならそれが、彼にはほんとうによくわかる。
時間は止まることなく旅を続け、行き、交う。その階段は頻繁に形すら変えるのだから。時は行きっぱなしではない。螺旋を描いては、複雑に絡み合い、そしてめぐり合い、交差する。そうして名前も忘れた旅人たちは、知らないうちに擦れ違いめぐり合って、また別れてゆく。そうして忘れたころにまた、やってくる。
空に光が揺れている。
君はいつくるかな。
僕はただ君を待つ。くちなしの丘の上で。君が再び僕に訪れ、僕が再び君と出会う日。
時はめぐる。
くちなしの丘で待つ、すべての人のために。
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