13

 男にすればそれは、ほんの一週間にも満たないささやかな時間だったし、少女にすればそれは、一年と半年と言うあっという間の時間だった。
 日々は穏やかだった。
 このままいつまでも、生き続けられるような気がする、明るい朝だった。すべての空気が清々しく、浄化されたような初夏の日だ。カーテンの隙間から、おはようと射し込んだ光に、少女は目を覚ました。チラチラと揺れるその光は、なんだかわらっているようで、あたたかい布団の中で伸びをしながら、彼女は思わずくすりと笑った。同室の少女を起こさないように、そおっとつま先でベッドから抜け出しながら、彼女はこの朝の清浄さに驚いていた。
 なんて透き通って、うつくしい朝なのかしら。
 なんだかながいこと、夢を見ていたような気がした。頭がすっきりして、体が軽い。最近ずっと、少女は微熱を出していた。とはいっても、彼女の体温は人よりずいぶん高かったり低かったりした。だから普段と変わらず、少女は授業にも出たし友達とおしゃべりに興じ、図書室で本を読み、懐かしい色をした少年と隣合って座った。
 当たり前のように付きまとっていた熱による倦怠感が、冷たい手でぬぐいさられたようだった。
 早々に着替えを済ませ、髪を梳きながら少女は鼻歌さえ歌った。
 そおっと扉を開けて、同じようにそっと閉じる。朝独特のしんと静まり返った城の空気は、いつも以上にしんと張りつめて、しかし洗い立てのシーツのように真っ白だ。糊も効いてピンと皺ひとつないような、そんな空気。石造りの螺旋(ねじ)階段を下りながら、少女はやはり、そのつま先の軽やかさに心まで踊るような気がした。
 朝早いだけあって、談話室にはまだ誰もいない。
 改めてぐるりとその大きな暖炉を囲んだ部屋を見回して、彼女は溜息をついた。なんて立派な部屋だろうか。使い込まれた絨毯も床もソファも、みな居心地よさそうに子供たちが座るのを待っている。入学したての一年生の頃、暖炉のまん前を陣取るひと際立派なソファに座る七年生たちをうらやましくも憧れの目で見つめたものだ。今そこには当たり前のように彼女の友人たちが座る。もちろん彼女も時折そこに座って暖炉の火を眺めたりおしゃべりをしたりチェスに興じたりお茶を飲んだりした。やはりその様を、一年生たちはあの様々なものが綯い交ぜになった気持ちで眺めているのだろうか。暖炉のすぐ上にかかったライオンのシンボル。勇気のある者が集う寮。
 私の勇気とはなんだったのだろう、なにをその素質として認められたのだろうと、一瞬少女の心にさっと影がよぎるが、それも今朝の光がすべて見えなくしてしまった。
 そのまま簡単な流し場で、お茶を淹れる。紅茶の飴色は、いつだって彼女にあの少年を想起させた。まだ眠ってるかしら。ふふ、とわらってはちみつをひとたらし。そのまま真っ白なマグカップを片手に窓際のソファに腰をかける。
 窓からは湖とそれを囲む森とが見渡せた。遠くの山は、群緑で、そのずっと向こうが空に透けそうな紫をしている。

 ふいにあの優しい丘はどこにあるのだろうと、少女の脳裏を久しく忘れていた話題が掠めた。
「…ロムルス、」
 忘れていたわけではない。
 忘れるはずがなかった。あの丘は優しく、しかし同時に、アルコルの星でもあった。あの丘に佇む穏やかな男は、たしかに優しい死神でもあったから。自らの壊れかけた心臓のことを忘れることなどないように、その丘のことも忘れることはなかった。ただ、穏やかに円を描いて回り始めた時間の向こうに、押し込めていただけ。
 突然来なくなったこと、彼はどう思っているだろう。
 心配しているだろうか、それとも気になんてしていないだろうか。いいやきっとどうしているかなって思ってくれているに違いない。1年以上も訪れていないことが信じられないほどだ。いまでもつぶさに、思い出せる。くちなしの花の上を渡る風のこと、その時の匂い。梢の揺れる音、金色の光。草の波。雲雀の声。乳白色の空と、遠くにかかる虹。隣に座る男の、穏やかな低い声。
 おやすみ、と囁くその音。

 コトリ、と心臓のあたりで音がした気がした。

 朝の光が真っ白に明るい。苦しみも悲しみも、すべて洗い流されたような真っ白な光に満ちた朝だ。水車の回るような音が、コトリ、コトリと、大きくなる。
 少女は唐突に理解する。
 すべてが美しい、明るい朝。湖の向こうで、光がチラチラと瞬いた。それは少女にだけ囁きかける、一種の魔法だ。真夜中に目が覚めて、まるでなんだかいつまでもいつまでも起きていられるような気がすることはない?そんな風に、いつまででも生きていられるような、そんな気がする朝だ。少女は微笑する。朝の光に透けるような、美しいほほえみ。透明な花のような、風に咲く声のような。
 日が徐々に昇り、真っ白な光に赤や黄色や、百色(ももいろ)が混ざり始める。鳥の声。ハグリットの小屋から、煙が昇りだした。あの煙りはどこへ行くのかしら。その先は空と一体化してしまって、識別することができない。西の空に真っ白い化石のような三日月を少女は見た。それすらも、合図。
 やがて静かな城に、小さな声が満ち始める。置き始めた子供たちの、話す声。歩く音。それらがだんだんと増えて重なり、高まってやがてすぐ蜂の巣をつついたような騒ぎになる。階段を下って、寝ぼけ眼をこすりながら、着替えた生徒たちが降りてくる。早起きの部類だ。まだ眠っている者は眠りの中だろうし、やっと頭がはっきりし出す者の方が多いに違いない。
 時計が七時を打つ。ボオンボオンという間延びした音。やはりそれを、少女はどこかで、毎朝聴いているのとは違う、もっと耳の奥で聞いたことがある気がする。
 紅茶はすっかり、冷めてしまった。

「おはよう、はやいのね。」

 おはよう、と穏やかに返した少女に、同室の赤毛の少女はその緑の目をかすかに見張った。
 、きれい。
 窓から射し込む光を受けて、やはり少女は、女神のように美しい。眩しそうに目を細めた友人に、少女は不思議そうに微笑んで首を傾げた。その様すらやはり、美しいと少女は思った。
「せっかく早く起きたんだもの。食堂で僕妖精にココアを淹れて貰いましょうよ。」
 初夏とはいえ石造りの城はまだ朝は冷える。それに頷いてが立ちあがるのに、なぜか少女はほっとした。カップを片づけてくるから、と言う友人を眺めながら、なんて細いのかしらと少女は目を丸くする。なんて白いのかしら、光に透けてしまいそうじゃない。
 カップを置いて帰ってきたとたんに、友人に手をぎゅっと握られて少女が目を丸くする。
「どうしたの?」
「なんでもない。ほら、行きましょ!」
 手を繋いだまま、二人の少女は歩き出した。
 早いんだね、と少年期をもはや過ぎようとしている友人たちが食堂に辿りついたときには、二人はすっかり朝食を済ませ、新聞や手紙に目を通しながらゆっくりとお茶に興じていた。当たり前のように、煮詰めた琥珀の目をした少年が、の横に腰かける。
「リーマス、寝ぐせついてる。」
 ちょっと指先で髪を触って、少女がわらった。
 いつもと変わらない穏やかな朝。平常通り、時は流れている。シリウスの寝ぐせのつかないしなやかな髪。ジェームズの寝ぐせなのか癖毛なのか判別できない頭と曲がったネクタイ。
 いつもより明るい朝。夏のせいだねと話し合った。

 その朝食の後で、猫の抜け出すように少女がいなくなった。



(110503)